松岡圭祐(まつおか・けいすけ)『ブラッドタイプ』徳間書店。※リンクさきは画像とフラッシュだけで構成されています…。
よみましたよ。いいんじゃないですか。
3人の臨床心理士が血液型性格判断にいどむという。
メディアのちからで、ふたつの偏見が助長され、社会問題になる。ひとつには、血液型がB型のひとなどへの差別的待遇。もうひとつには、白血病は悲劇で不治の病(やまい)だという偏見の定着。どちらも時代劇の悪代官のごとく、わかりやすい「犯人」が設定されている。
この小説は、具体的な問題意識から出発して かきあげられた作品であるようにみえる。だが、できあがった内容は、意図してのことか、じゃっかん「小説チック」なところがある。極端から極端へというような展開なのだ。
日本において血液型性格判断の問題は、みすごすことのできない社会現象をたびたび ひきおこしてきた。ふたりの社会心理学者による『オール・ザット・血液型』などをみればわかるとおり、おあそびではすまない事態もおこっている。
だが、この小説でみられるような一大事には いたってはいないようにも感じられる。極端ではなく、あくまで中途半端。それだけに事態を解決しようにも、深刻さが つたわらない分、やっかいなのだ。
また、ひとりの人間のちからで大ブームがおこったり、社会現象がおこったりすることは、いまも そうしたことがないわけではない。だが、むかしよりは すくなくなったのではないかと おもうし、これからも、より すくなくなるのではないか。社会の構成員が みな おなじ方向をむくということがなくなり、あるひとは新聞をおもに利用し、またあるひとはウェブ上の情報にパソコンからアクセスし、またケータイばかりを利用するひと、テレビが だいすきなひとがいたり…。そのように、「拡散」しつつあるのが現状ではないかということだ。もちろん、拡散しつつ、また収斂するというのが現実であろうが、ともかく、諸悪の根源というものが特定しにくい社会であるには ちがいない。
日本社会では、血液型と性格の関連を信じるというのが、ひとつの制度のようになってしまっている。文化とか習慣をこえて、である。そうしたなかで、なにができるのか。
そのアプローチのひとつが、この『ブラッドタイプ』といえる。小説という点があたらしい。ここで、いまどき小説をよむひとなんてと悲観的になってもしかたがない。
そもそも、血液型性格判断の問題のひとつは、あまりに性格を一面的にとらえている点だ。性格を変化がなく、固定的なものとして とらえる見方は、ある種の「決定論」になってしまっている。日本で おおくのひとが血液型と性格の関連を信じているひとがいるとしても、それをかえることのできないもののように とらえてしまっては、批判する対象と にかよった発想に たってしまうことになる。ひとは かわる。かわりつづける。
つくったものは、つくりかえることができる。それをあきらめていては いけない。ただ、それが つくられたプロセスには複合的で多方面の介入があったことをわすれてはならない。複雑に つくりあげられたものを、単純にスイッチひとつで つくりかえることができるものだとは、安易に かんがえないほうがいい。
じゃあ、どうしようか。こたえは、ひとつ。いろんな手をつかえ、だ。
ということで、小説『ブラッドタイプ』、たいへん有意義な作品だと おもいます。
…なんじゃ、そら。
リンク1:血液型カルチャー年表 (佐藤達哉=さとう・たつやさん)
リンク2:「血液型と性格が関連している」という差別 (「いんちき」心理学研究所)
リンク3:究極の血液型心理検査
リンク4:「バーナム効果 - ウィキペディア」