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食文化とタブー、文化って なんだ

韓国で かった本で おもしろい本がある。『犬肉をくおうが くわまいが?-相対主義のまちがい』イム・ジョンシク、2002、ロデムナム。

クジラをたべるのを「外国人」に批判されると、たちまち愛国精神を発揮する ひと、けっこう いますよね。韓国人でも おんなじことがあるわけです。ワールドカップで韓国が注目されて、犬食も注目・非難のマトになったようで。とあるフランス人に「犬をたべるなんて!!」と批判されて、韓国では「文化相対主義を理解しない、一方的な非難である」という反論が でてたようです。まぁ、ありがちですよね。犬食問題で注目すべき点は、犬の処理の仕方が かなり残虐であること。わたしの友だちも「ひどい ころされかたをしているのをしっているから犬は たべない」と いってました。韓国人なら だれでも たべるわけじゃないですからね。

はてさて、「かなり残虐」と かきましたけども、これは あくまで「主観」なわけで、「残虐だとは おもわない」という感覚であるなら、ちょっと反論できなくなりますけど、たいていの人は自分で処理してないわけで。そこに注目したい。自分で処理するのはイヤなんじゃない?と。

ちょっと引用しましょう。
文化相対主義は「フランス人は犬をたべない反面、中国人と韓国人は犬をたべる」というように文化の多様性を記述する 記述的な性格をもっている。しかし文化相対主義に依存して われわれの犬食文化を擁護しようとする ひとたちは もう一歩すすんで「ほかの社会集団の慣習について批判するのは まちがっている」、あるいは「ほかの社会集団の慣習には沈黙するべきだ」と主張していることに注目しなければならない。
記述的といえば、世界の犬食文化について、わたしらが どれだけの知識があるかと いえば、ほとんど なにも しらないのが現実だと おもうんですね。そこで、『犬肉と文化帝国主義』(2002年、中央M&B)という本も かってみました。著者は『左手と右手-左右象徴、抑圧とタブーの文化史』という本も だしてる チュ・ガンヒョンさん。この本、犬食文化について いろんな写真つきで紹介してる。博識な ひとが かいてるだけに、興味ぶかいですよ。もっともだと共感したのは、「『食用』の境界線はどこまでも歴史文化的な選択にすぎない」(81ページ)というところ。人間は雑食であって、基本的には なんでも たべれるわけです。だけど、一定の(だけども あいまいな)線ひきをしている。それは、文化集団によって ことなることもあるし、個人個人で ちがうこともある。結局は「人間の数だけ食文化がある」と、もっともらしいことをいって自己満足するのが無難でしょうね。

文化相対主義をもちだして、「こちらの文化」を擁護しようとするとき、いろんな文化圏についての知識があれば たよれる武器になるのに、表面的な知識しかないのが ほとんどなのも ありがち。だから文化を固定的に とらえてしまって、「日本人はこうだ」、「インド人はこうだ」なんて話になっちゃう。人間が そんなに単純なんだったら、「血液型の性格診断」も 信じるよ(笑)。固定的に とらえてるからこそ、「日本人は こうあるべきだ」に飛躍しちゃうわけよね。「文化だから」といって、「神聖にして侵すべからず」てなわけじゃないし、おたがい批判くらい したって いいじゃないか。

ところで、「韓国人」と かきましたけども、正確には朝鮮人ね。南北朝鮮、その他の地域にいる朝鮮人を総称してね。

ということで、たべる/たべないの分類とか境界線にも いろいろ ご都合主義的なものがあるわけで、そんな観点から自分の食生活をふりかえってみるのも よろしいかと。

グーグル:「文化相対主義の限界」 / 「食文化とタブー」 / 「日本人論批判」