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映画『ペパーミント・キャンディー』

映画『ペパーミント・キャンディー』―それは純粋への回帰ではない

「オレは、かえる!」という絶叫。はたして、どこに。「オレをこんなにしてしまったヤツをころす」。はたして、それは だれなのか。悲劇は、かえるところなどないということ、かえることは できないということではない。かえったところで、かわるものはない、ということだ。

時代の産物、社会の産物でありながら、同時に意志をもつ存在だということ。それが、責任の所在、因果関係をぼやけたものにする。いや、「これ!」という原因など、あげられるわけがないのだ。

時代を逆にはしる列車。最後にたどりつくのは、「クァンジュ以前」である。「クァンジュ以後」は、政治犯を拷問する刑事であり、1980年5月、「クァンジュ」のさなかには、高校生を事故で銃殺してしまう。だが、「クァンジュ以前」は、組合運動に参加したこともある人物である。はたして、それや初恋が「純粋」だったあかしであり、クァンジュが「オレをこんなにしてしまったのか」。

監督・脚本をつとめたイ・チャンドンは、インタビューにこたえ、クァンジュ以前を純粋、クァンジュ以後を非純粋とみなしていることをみとめている。そしてそれは、クァンジュのトラウマが うみだしたのだという(ヨンセ大学メディア研究所編 2003 『ハッカ飴[パッカサッタン]』図書出版サミン、朝鮮語、183ページ)。

韓国が軍事独裁政権であったのは、クァンジュ以前も以後もかわらない(1987年まで)。政治犯を拷問していたのも、もちろん同様だ。ただ、主人公ヨンホは、まさに あの5月に兵役中であり、その後 刑事になったということなのだ。ヨンホのうまれが、すこし はやかったら? 70年代に20代をおくっていたら? それなら かわっていたと いえるのか。かわるというのは、なにがか?

クァンジュ以前は純粋だったというのは、幻想である。ヨンホにとっては そうだったとは いえるだろう。しかし、もうひとりのヨンホ。かずしれないヨンホをイメージしてみるとよい。ヨンホの一生は必然か? 時代の被害者か? しかたが なかったのか。

ヨンホに免罪符をあたえてしまうなら、その時点で、「ヨンホの被害者たち」は わすれさられる。「ちがうヨンホ」もありえたということは、すでにヨンホの同級生が しめしているはずである。

しかしだ。あの時代に軍人であること、刑事であることは、のがれることのできない巨大な権力の手ごまであることだったのだ。つまり、両義的なのである。

われわれは、社会の産物であると同時に、自分の意志をもっているからだ。

被害者であり、加害者であるということ。そのような存在をうみだしたのは、あきらかに国家権力である。しかし、被害者の存在を忘却するかたちでヨンホに免罪符をあたえてはならないのではないか。

なにごとも、どこに視点をおくのかによって、印象は ことなってくる。この映画には、家父長的な男性群に免罪符をあたえ、ノスタルジーに ひたらせる効果がそなわっている。その効果に ききめがあるかどうか、それに順応するかどうかをきめるのは、わたしや あなたの意志ではないか。

「クァンジュ」とは なんだったのかをとうだけで、韓国の現代史は かたれない。いや、「クァンジュとは なんだったのか」というのは、もっと ひろがりをもつ といであるはずなのだ。


もちろん、1980年うまれの多数派日本人が、えらそうな口をたたけるものではない。なんというゴタクセンだろうとも感じる。しかし、同時代に あらわれた映画にたいし、意見をのべる権利はあるはずだ。イ・チャンドンにも表現の自由があり、わたしにも批評する自由がある。ひとまず、そのことに感謝したい。それは、自由をかちとってきた人たちにだ。

また5月が すぎていきます。

グーグル:「ペパーミント・キャンディー」