hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

ほんのすこしの間でも

ありがとう、そして さようなら(特定の個人に ささげます)。

どんなに限定された環境での やりとりであろうと、そこに信頼があり、相手を大切に おもう気もちさえあれば、その ことばのやりとりは、人生の財産になる。いくつもの財産をつみあげて、夕日の にあう ひとりの老人になったとき、あぁ、いい人生だったと、そう おもえる日がくるだろう。わたしも、あなたも。

『ポケベル・ケータイ主義!』(1997年、ジャストシステム)という本では、「『ベル友』とは、匿名性を前提にしたメディア上での親密な見知らぬ人」だと説明されている。ここ何年かの間に、ベル友の時代をこえて、メル友、チャット友だち、ブログ・掲示板での友だちなど、「親密な見知らぬ人」との交流がより ひろく定着してきた。なかには、共依存的に はなれがたい関係になることもあるだろう。さっぱりと わかれてしまうこともあるだろう。どちらかが選択すれば、スイッチをきるように わかれられるのだから。でも、そんな関係だからこそ、いとおしいものが ある。どちらかが その場をはなれることにしたとしても、そこに いけば あの人や この人がいるという安心感。おかえりと いってくれる人がいて、そこに自分の居場所があるということ。なにかと「バーチャル」と指さされ、現実と対比されて かたられるものに みいだされる「リアル」。あきらかに そこが「リアル」だからこそ、居場所になりえるのだ。

まぎれもない「現実」を仮想空間と現実空間に区分する発想は、ただの「あたらしいもの嫌悪」にすぎない。ん、話が かわったけど、ま、いいや。

グーグル:「共依存」 / 「引き際」