hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ

きのうも肉をたべたように記憶しています。けれども、わたしはベジタリアンです。

読者のみなさんも、きのうも きょうも肉をたべたかもしれませんが、ベジタリアンです。

まえに、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」という文章をかきました。

これにたいし、タカマサのきまぐれ時評2さんからトラックバックをもらいました。いまさらながら、補足をかねて、おへんじをかきます。

「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…の後半部分をとりあげます。タカマサさんは、わたしの記事に、つぎのようにコメントしています。
■たとえば、「ひとは すべて、倫理的、宗教的、健康的、体質的、味覚的な理由から たべるものをえらんでいる。すべての食材をたべるひとは どこにも いない」「人間すべての本質でもある」という記述は、人類学的には ただしい。■しかし、だったら、「ヒト=ベジタリアン」ということになってしまう。なにしろ「すべての食材をたべるひとは どこにも いない」んだし。
■でも、「ベジタリアン」というのは、限定形容詞でしょう? つまり、「全体」よりちいさな「部分」であるはず。つまり、hituziさんの立論は、「全体=部分」という、パラドクス(逆説)の言明になってしまう。■同様に、「肉をたべるベジタリアン」という表現も、論理階梯に混乱を生じさせているとおもう。「ヒト=ベジタリアン」のなかで、限定しているってことはわかるんだが、「ヒト=ベジタリアン」って素描が意味があるか、問題なんだから…。
■とするとだね。「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」というべきだとおもうんだね。以前、ヒトはなぜペットをくわないか? みたいな、くだらん立論してよろこんでいる先生がいたが、それと全然ちがった、ふかい人類学的考察ではあるとおもう。■しかし、「ヒト=ベジタリアンであるがゆえに、差別・異端視するな」という差別論におわるとしたら、つまらない。
■もちろん、「イヌくうな」「クジラくうな」式の暴論を検討するなんて、ちいさな課題にとどまらない。■「動物性たんぱく質をこのむ人間存在ってなんだ?」「植物さえも殺生することをいやがるタブー意識ってなに?」「食糧の配分の正義はもちろん、動植物を殺生するヒトの権利はどこまでまっとうといえるか?」なんてこともふくめて、とても射程のながい提起であることは、あきらか。
「ヒト=ベジタリアン」ということになってしまって、全然いいじゃないですか。とっても いいじゃないですか。

「「ヒト=ベジタリアン」って素描が意味があるか」。あるに きまっています。なにって、政治的な意味があります。社会運動的な意味があります。「南北問題」的に意義があります。

タカマサさんは、「「ベジタリアン」というのは、限定形容詞でしょう? つまり、「全体」よりちいさな「部分」であるはず。」と いいます。

だれにとって限定形容詞なのでしょうか。「やつらにとって」なら、わたしは そんなもの気にしません。「「全体」よりちいさな「部分」」になんか させません。

野菜をたべるという点において、あるいは、あかちゃんなど、肉をたべていないという点において、わたしたちは、みんなベジタリアンです。

ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがうということです。

わたしが問題にしたいのは、つぎのような潔癖主義です。


「肉をちょっとでも たべているならベジタリアンではない。」「その資格はない。」「そう名のるべきではない。」

とんだ たわごとです。

潔癖主義にたつことで、たくさんのベジタリアニズムを否定し、排除する。おとしめる。エリート主義です。


ははは。


うそうそ。


そうじゃない。


反ベジタリアニズムの思想の もちぬしが、ベジタリアンを限定形容詞にしてしまうのだ。なぜか。そうすることによって、ベジタリアニズムを他人ごとにしたいからです。にげたいからです。自分から、きりはなしたいからです。自分とは関係のないことにしたいからです。


きょうは、野菜をたべよう。そんなとき、あなたは すてきなベジタリアンです。

きのうは肉をたべました。それでも、あなたはベジタリアンです。


そういった ゆるい思想。ゆるい連帯。資格をとわない社会運動が必要なのです。


きょうは、これだけする。きょうは、やすむ。けれども、めざすところは、脱肉食である。野菜をたべることをたいせつにする。


わたしたちは、すでに みんなベジタリアンです。そして、思想的ベジタリアンになるならば、脱肉食に、さらに ちかづきます。わたしたちは、脱肉食に もう すでに あゆみよっています。そこを、さらに あゆみよることができるのです。

肉食の不合理を意識することによって、ベジタリアンの思想を獲得できるのです。


肉をたべるには、動物をそだてなければなりません。さて、どうやって そだてましょうか。水をあたえるだけでも、たいへんな資源を消費します。水は ただではありません。動物は、水だけでは そだちません。穀物などの野菜が必要となります。

わたしをふくむ、先進国のひとたちは(=不当にだれかに経済的に まずしい生活をおしつけているひとたち)は、あらまあ おいしそうに肉をたべます。

経済的に まずしい生活をおしつけられているひとたちは、なにをたべているでしょうか。そのひとたちの生活環境は、どのように なっているのでしょうか。


肉食は破壊だ。


おおきな動物をたべずに、ちいさな生物をたべよう。ムシを積極的にたべるのも、ベジタリアニズムです。わたしたちは、すでにベジタリアンです。そこから にげるのは、とりあえず、やめましょう。



え、なに?

いま、批判的な こえをききました。

おまえは、おまえたちは、破壊的な肉食者なのだと。

だれでしょうか。このこえは。神様?

おまえは、だまってろ! この神様やろう。