hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

人間をかんがえる

タカマサのきまぐれ時評からトラックバックをいただいた(「「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…」)。

「正論だとはおもうが…」の、あとにくるもの。つまり、しっくりこない部分をみつめることで、かんがえてみること。わたしは、そこに期待している。

それは、わたしが いままでに かいてきた議論についての議論のタイトルだけをみてもらっても、感じとっていただけるのではないかと おもう。

「つながり、ゆさぶり、ひびきあう」
「てさぐりで もがきながら」
「断言しても仕方がない。だけども、それでも とりあえず。」
「そのひとの文脈」
「不適切に いいかえろ」
「しっくり こないぶんだけ」
「文脈が ちがう」
「ほんとのことは、うそをつく」
「混乱させろ」
「うそをつくのをおそれるな」
「むしろ矛盾しろ」
「つっこみを歓迎したい」


最近かんがえているのは、一部のひとたちをながめて観察することで、そこにある人間の普遍性をみいだせるのではないかということ。というか、一部のひとをみるときに、そのありかたが、それらのひとたちだけの固有で、あるいは特殊な事例などではなくて、人間だれしも そうなんだと、わたしは かんがえていたいということだ。

それはなにも、人間の普遍性をみいだすために だれかに注目するというのではない。現に だれかと関係していて、正面から ぶつかっていかねばならない状況に おかれているとき、どのように むきあえば いいのか。それを模索したいのだ。

このまえ、スクーターに のって移動しながら かんがえていたのは、定義にかんする ふたつのことだ。

ひとつには、人間は「ひきこもり」というワクに おさまりきらないということ。それを「むしろ矛盾しろ」にかいた。それと おなじ発想で、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」に かいた内容の原案をかんがえていた。

「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは、記事のタイトルとして奇妙でいながらも興味をそそるものにしようと かんがえてのことで、おなじ要領で「むしろ矛盾しろ」も、「ひきこもりは存在しない!」にしようかと かんがえていた。

スクーターにのって かんがえていたのは、「人間とは」というはなしではなく、「ベジタリアンは肉をたべる」し、「肉をたべるベジタリアン」というのは矛盾でもなんでもないということだった。それは、ひとつの定義、ひとつの観点に、人間は すっぽりとおさまることはなく、ひとは いつも定義をうらぎり、とびだしていくものだという人間観に もとづいていた。

だから、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」「むしろ矛盾しろ」の延長線上にある。

そして、それと同時に、このブログで むかしは何度も とりあげていた「たべるということについて」の議論の延長線上にある。

ここで、「たべるということについて」これまで論じてきた記事を、すべてリンクしておく。論じるというほどの内容じゃないものをふくんでいるが、いくつか よんでみてほしい。

「野菜スパゲティ」
「そだてる、とってくる、さばく、火にかける、たべる」
「食文化とタブー、文化って なんだ」
「食文化と規範、ふつうって なんだ」
「ことばづかい」
「レッテルの はりあいは むなしい」
「おたがいのジレンマをさらけだし、みとめあう瞬間」
「こどもでも よめるということ」
「感情移入」
「世界はマクドナル化なんか しない」
「ペットフードを料理してみるテスト(予告編)」
「ブタは どこにいったのか」
「かくごしていた/していない」
「かわいそうのバランス」

人間と動物の関係については、
「「人間も動物だから」」
「ヒトは悪魔か」
「かくも「正しい」動物愛護」
「紹介『動物の命は人間より軽いのか』」
をごらんください。


わたしが かいていることは、すべて わたしの人間観、言語観、コミュニケーション観、社会観に もとづいている。あたりまえなのだけどね。

人間について かんがえる。それは、わたしが、あなたが、いろんな ひとと関係しているからなのでしょう。