きのうの失敗は、きょうの成功につながり、きょうの成功は、つぎの失敗へとつづく。
一方通行ではなく、いっしょに つくるもの。いっしょに つくるものなんだけど、それって たてまえじゃないの?という面も たしかにあるもの。けれども、いっしょに つくるように つとめたい。
ふりかえるには おそろしい。さきをみるには おぼろげだ。いまさら。
さいきん言語学に はまっている。学部のとき以来のことだ。日本語学とかね。朝鮮語学とかね。いりぐちのまえに、やっと たとうとしている。おせーよ(笑)。
なにが さきんじて存在し、それをもとに、だれが なにをつくったのか。それが だいじだ。
さかだちした発想は あちらこちらにある。原因と結果。現状と対策。なにが どうして こうなったのか。みきわめるのが だいじだ。
イアン・ハッキングは『何が社会的に構成されるのか』岩波書店において「解釈」と「プロセスとしての構成」そして、「プロダクト[ある産物]としての構成」を区別している(95ページ)。
みいだされたものなのか、つくりだされつつあるものなのか、つくられたものなのか。
解釈も ふたつに わけられるかな。みいだされたもの、みいだされつつあるもの。
解釈にもっとも関連が ふかいことなのだが、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という かんがえかた。つかえるもんだなあと実感している。
解釈する わたしは どこにいるのか。どのように位置づけられるところから、つまり、どのような世界のなかで解釈するのか。それ次第で全体もかわり、そして対象の解釈も かわっていく。
あるバラードの歌詞に、「わたしらはパズルのピースにすぎないんだ」というのがある。「わたしら」とか かいてる時点で日本語の歌ではないわけだが。
パズルは完成したかたちというものが想定されているので、どこかにゴールがあるかのような印象をあたえるから「言語ゲーム」と関連づけては よろしくないのかもねん。やっぱチェスとか将棋のコマとかトランプのカードか。「わたしらは将棋のコマにすぎないんだ」。いやなイメージを連想させることばだな(笑)。
これって どういう意味ですか?と きかれて、それは これこれこれとか、それそれそれとか、その文脈や全体のなかで意味をもつものなので、そのことば自体をながめても意味なんてのは みえてきませんよ。文脈をはなれて意味は もちえないんですからねと。
おっと。わたしは たいへんな失敗をおかすところだった。と、関係ないところで納得しておわります。「言語ゲーム」から「言語テスト」へと。
いびつなテストをしたら いやん! すべての言語テストは「言語ゲーム論」に もとづくべし!
リンク:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン