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ジュディス・バトラー

ある ちいさな研究会でジュディス・バトラーについての論文をよんだ。バトラーの『ジェンダー・トラブル』は いまだ未読。なので、よくわからない。文脈もなにも しらない状態で憶測で あーだこーだ いうのは よろしくないが、ともかく自分なりに「セックス(生物学的性)の社会的構築」とは、どういう話になるのかを想像で まとめてみた。


バトラーが くつがえそうとしたものが、「セックスそのもの」なのか、「セックスにまつわる言説」(あるいは、「セックスという言説」)なのかの確認をしてみる必要がありそうです。

セックス/ジェンダー/欲望の主体(『ジェンダー・トラブル』第1章)

うえの解説をよんでみると、セックスを生物学的なものとして容認してしまうと、科学者にゆだねることになってしまうと。なるほど、そのとおりですよね。セックスの自明性を断定しないという姿勢(それがバトラーの主張とイコールなのかは別として)は、フェミニズム科学論を可能にし、科学がいかに性差別を再生産しうる言説を構築しているのか?という確認作業をしていく「資格」を獲得できるようになる。これは、ジェンダーとセックスをはっきりと区分する発想からは、うまれえない発想ではないでしょうか。

セックスとよばれるものは、たしかに物理的な身体に内在している。だから、生理や射精や出産があるのだ。←これは起源の話ですよね。

起源はともかくとして、社会のなかではセックスは「すでに」言説であり、知識である。知識の社会性という観点からすれば自明なように、セックスという知はすでに社会的なものでしかありえない。←これは機能の話ですね。

起源として物理的であり、実在のものであるということと、それが社会的に構築されているものだということは、矛盾しないのではないでしょうか。社会構築主義を、「<ないものをあると断定する言説>を脱構築するこころみ」として理解しないかぎりは。

くりかえすと、社会のなかでセックスは、すでに言説であり、知識であり、なんらかの価値判断までふくめたものであり、「それそのもの」であるというよりは、「意味づけされたもの」である。社会においては、そもそも「それそのもの」などというものは、概念やことばとして以外には存在しえないものだと。

自分で かいていて実感するのは、論理って むずかしいなぁと。うえのような説明には、まったく自信がもてない。じっさい、つっこみどころ満載なのでしょう。したにリンクしたやつをゆっくり よんでみることにします。

グーグル:「ジュディス・バトラー」 / 「バトラー批判」
リンク:「セックスは否定できるか」 / 「セックスは否定できるか・2」ジェンダー素描