現実の社会環境(世界)というものは、ひとつしかないものです(「ひとつしかない」という世界観もまた、ひとつの見方にすぎないというはなしは哲学畑に うめておくことにします。ほりおこしたいひとは、どうぞご自由に)。けれど、それぞれのひとにとって、「それがどのような環境であるのか」は、ひとの数だけ ちがいが でてくるように おもいます(もう自分では いいあきたフレーズだけど、もう一回いってみることにします)。
世の中には、いろんな価値感があります。たとえば、依存症をマイナスにとらえる価値観。あるいは、依存症を個人の責任におしこめる価値観。いや、依存したっていいじゃないかという価値観。そうじゃない。「依存したっていい」とかじゃなくて、依存しないようにしようと おもいつめるあまりに、余計に依存してしまうから、少々の依存くらい かまわないじゃないかと、自分を管理するために「依存してもいい」って かんがえるんだというひと。いや、その少々というのが、くせものだというひと。「依存はいけないだなんて、だれが いいだしたんだ、このやろう」というひと。「ちくしょう、なにが依存だよ。ちくしょう」というひと。
そんなふうにいろんな価値観や発想があるなかで、それぞれのひとは、翻弄されたり、まいごになったり、自分を否定したりして、がんじがらめになっているところがあるように おもいます。「わたし」をしばる価値観、知識、社会環境。そのようなものから、いかに解放されることができるのだろうか。
ひとつのことからの解放が、あらたな拘束をうみだしてしまうことがあります。解放というものが目の前にあり、そこに たどりつけば まばゆく ひかった世界が ひろがっているというのであれば、どんなに いいことか。
しかし、そんな まばゆい世界は、空想の中にしか ありゃしない。
だめだ。こんな はなしをして、なんになるのだ。いきぐるしくなるだけではないのか。そのさきに いったところで、理想郷には たどりつけないのだなんて、「わかっちゃいるけど、ききたくないよ」のたぐいではないか。あまりにも理想をもとめるがあまり、ささやかな前進すらできなくなるなんて、本末転倒ではないか。
がんじがらめにしているのは、おまえじゃないか(つまり、わたし)。現実を固定しようとしているのは、おまえも おなじじゃないか。
なにか社会に問題があって、それを解決しようと問題提起をする。その問題が、とても強固であるように感じられることはある。だが、それを表現するときに、問題を固定化するような いいまわしを、ついついしていることがある。必要なのは、いかに強固にみえる問題であっても、それをゆるがす論理をくみたてていくことだ。
なんなの? これ、なんのはなし? 自分でも わからないので気にしないでください。