ところで、セックス=性差じゃないですよね? 以下は、セックスの男女差=性差としておきます。もちろん、性差を男女差と表現してしまうことで、突然「性二元論」にたってしまうわけで問題があるけども。とりあえずの便宜として。
バーの『社会的構築主義への招待』をよむと、おもしろいことが かいてある。
パーソナリティとは、社会的に構築されたものだと言うことは、何を意味するのだろうか? 一つの見方は、パーソナリティ(あなたがそれである人の種類)を、人びとの内部ではなく、人びとの間に存在すると考えることである(41-42ページ)バーは「人なつこい」「内気な」といった説明は他者の存在なしには意味をうしなってしまうという。なるほど、ごもっともだ。
セックスというものはだ。目にみえる範囲のものは、物理的に存在しているといえるだろう。もちろん、なんらかの文脈なしには「それ」に「注目」しないだろうけれども。
性差というものはだ。AとBとの比較なしには判定できないものだ。半陰陽(インターセックス)があまり注目されないのは、「多数がそうであれば、全体がそうである」という発想が社会を支配しているからだと いえるだろう。ここでは、AとBというのが、どちらかが男性で、どちらかは女性であると断定してしまうという問題がある。
性差を「女性と男性の身体的な差」と みなしてしまうと、女性も男性も抽象化され、イメージのなかの女性と男性を論じることになってしまう。もちろん、ほとんどの場合は それでも なんら問題が おこらない。だから、性差についての実感というものがあり、バトラーの主張は詭弁であるとか、知的エリートのたわごとだと批判されうるのだろう。
ともかく、比較なしには判定できないということは、性差も「人びとの間に存在する」ということだ(「ちがい」なんだから、あたりまえ)。けれども、セックスそのものは、物理的な身体に内在している(からだは空想の産物ではない)。自分のからだは、いつも具体的なものである(からだの一部の感覚がうしなわれた場合は、具体的とはいえないが)。けれども、自分のからだが「どうなのか」は比較をまたなければ なにも いえない。セックスは具体的であるが、性差は いつもいつも具体的であるとは かぎらない。
しかし、人が自分をみつめる(自分は、どういう存在か?)ときは、たえず他人との比較をとおしてでは なかったか。であるとすれば、はたして「自分のからだに注目し、つぎに他人のからだに注目し、自分と他人の ちがいに気づく」という順序なのだろうか。「ある程度」自分のからだのことは わかっている。→他人をみる。→自分の特徴=相手の特徴に気づくという順序も当然ありうる。どちらが先かという話ではなくて、いろいろな順序がありうるということだ。
えーっと。まぁ、こんなのは ことばあそびですね。おもしろいとも おもえないし。
だけど、セックス/ジェンダー/セクシュアリティが、それぞれいかに多様で、それらが いかに多様な くみあわせで構成されているのかをみていくと、まったく頭が混乱してしまうほどだ(笑)。まぁ、ジェンダー論も、べんきょうしてみると おもしろそうだということで。おしまい。
『ジェンダー・トラブル』は、もうすぐ とどきます。よんだら感想かいてみます。
グーグル:「人と人の間に」