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コミュニケーションに障害はありえない

どのようなかたちであれ、ひとと ひととが接するならば、それはコミュニケーションである。「無言による応答」もコミュニケーションのひとつの ありかたであるように、どのような接しかた、応答のしかたをするにせよ、「コミュニケーションできない」なんてことは ありえないのだ。

だれもがコミュニケーションしているし、その よしあしを論じることはできない。


だれかを人質にとって、「ちかよるな! こいつをころすぞ!」と いっているひとにたいして、どのように接したら よいのか。そんなものは、よいも わるいも、正解もない。結果が うまくいけば、よかった、とは いえる。だが、そんなのは いきあたりばったりの、どのようにも評価できる しろものでしかない。

わたしは、あるとき語学の講師になり初回の授業で「コミュニケーションはなんでもあり!」とプリントに かいて くばり、「おはようと いわれて、バカと いいかえすのも、ありえることだ」などと、「一般的な語学の授業」を「なんとは なしに」おちょくったことが あるのだが、結局は そういうことだ。

「なんでもあり」だし、なんでもかんでもコミュニケーションなのだ。


だから。「コミュニケーションに障害がある」という表現は、視覚障害とか聴覚障害とか、そういうときの「障害」とは質的に意味が ことなっているということに注意したい。めが完全に みえないとか、みえずらいというのは、本質的なものだが、コミュニケーション障害というのは、相対的なものだ。

もちろん、めが みえないとか、みえずらいというのも「めが みえる」ことを基準にし、そこからの逸脱を指摘する表現であるから、相対的な側面をもっている。その点では、やはり「視覚障害」という表現にも権力関係が反映している。だが、めが みえないのは、事実でもあるのは否定できない。それに対し、コミュニケーションに障害があるというのは、事実でもなんでもない。あなたの主観による評価なのだ。たちのわるいことに、主観による評価が制度化されて、自明視されているケースがある。そうなると、もはや たんなる評価ではなくなり、絶対的な実体になってしまうのだから、おそろしいことだ。



いま現に、わたしたちは審査員です。「コミュニケーション障害」というものを、だれかから感じとってしまう以上は「審査員」に ほかなりません。けれども、審査員をやめましょう。おりましょう。たとえば、あなたはミスコンの審査員になりたいですか。なりたいひとは、そうでしたか。なるほど。なりたくないひとは、どうですか。審査員は いやでしょう? 審査員をやめましょう。

そして、コミュニケーションに点数をつけるのをやめましょう。ただ、わたしにとって こういうコミュニケーションは都合が わるい、わたしの利益に反する、だから いやだとか、そういう いいかたをしましょう。

コミュニケーションに障害は、ありえないのです。