「で、結局このひとは なにがいいたいの?」というのを、ときとして第三者にたずねることがある。そして、きかれたほうも、たぶん こういうことじゃないかなと、こたえることがある。
きくほうも、こたえたほうも、それが「そのひとの かんがえ」に忠実なものであるとはかぎらない、ということをきちんと意識していれば、べつに問題はない。なのだが、ついつい きいてしまうこともあるし、きかれたほうも「そんなのしらねーよ」では なかなか すませられないときがある。そしてなにより、そのひとの文脈から どんどん はずれていくかたちで、そのひとの かんがえというものをつくりあげてしまうことがある。これは さけたい。さけたいのだが、これが なかなか むずかしい。
もとより、そのひとが じっさいに かんがえていることというのも、いつも「ひとつ」で固定的なわけではない。状況やさまざまな条件のもとに、「つくられていく」という側面が、たしかにある。だが、それでも、それはたしかに「そのひとの日常」に もとづいたものである。
理解するというのではなくて、解釈。くみとるというのではなくて、つくりあげる。自覚するというのではなくて、おもいこむ。発見したのではなくて、妄想。
本質というものはなくて、ただ実感がある。そうだなと実感できるかどうかで、「ごもっとも」か、「それはちがう」が きまってくる。そうだなと感じたとしても、「それまでの実感」が そのとおりだったとは かぎらず、その時点で あらたな方向にすすんでいるのかもしれない。わからない。なにも わからない。
でもそれは、原理的には、でしょう? こまかいことをつっこまなければ、ことはそんなに ややこしくないのではありませんか?
わからないのは、いきているから…(?)。それなら死んでしまったら? もっと わからないでしょう。わからないのは いっしょだが、そこで とまる。そのひとはね。まわりのひとは、うごいている。それなら ひとは、「ともに うごいている状態をいきている」ということ。サーカスの空中ブランコみたいな?
ほら、みてごらんよ。かいてる本人が わけわからないじゃないの。
おいおい、それ わざとだろ?
ちがーーーーう。おっと、ここに、そのひとの文脈があるじゃないか。かいてるうちに、こんなことになってしまったのだという、わたしの文脈。わざとではないんだという文脈。「そろそろ ねむたいな」という、この状態。
まとまったんだか、なんなんだか。どうにも、わからない。