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それぞれの「靖国神社とは なんぞや」

月末に東京に いくことにしたので、ついでにヤスクニに いってみることにする。おそらく、韓国人の友だちと いくのではないかと おもわれ。「(韓国人と)靖国神社に参拝してみるテスト」ってやつですな。

靖国神社という「名前」があり、靖国神社と よばれる「施設」がある。それには、つくられた「理由」というものがあり、これまで はたしてきた「機能」と、これから はたすであろう「機能」がある。靖国は、その「時代」と ともにあり、また、さまざまな背景・立場をもつ「人」たちによって支持され、あるいは、批判されてきた。さまざまな「動機」によって靖国を「訪問」した人たちが いて、ある人は「見物」し、ある人は「参拝」したわけだ。

葬式は、死んだ故人のためにするものではなくて、のこされた人たちのために、のこされた人たちがするものだと おもう。しかしながら、葬式の参列者は「故人のために」この葬式をしているんだと、たいがいの場合おもっていることだろう。そんなもんですよね。

靖国は、どのように意味づけられているのか? さまざまな意味づけのなかから、自分にだけ都合のよいものだけを取捨選択して、「いいとこどり」できるものなのか。あるいは、すべてをひきうけるべきなのか。靖国の参拝者には、そのへんのところが とわれるのでしょう。おっと、靖国の批判者にもですかね。批判者が ひきうけるべきことって、あんまり わからないけども。

靖国は、神社なのか、そうでないのか。わたしは、「ほんとうの神社」という かんがえかたは すきじゃない。だけども、国家神道による神社は、(比較的に)政治性が つよいものだとは おもう。

ついでに、わたしは無神論者という表現をすることすら無意味に おもえるほどに、宗教に興味がない人間である。教会に いってみたり、お寺に いってみたり、神社に いってみたりはする。だけども、それは必要だからとか、「そこに宗教があるから」ではない。ただの施設として訪問するだけだ。手をあわせるのも、「そういうところだから」という安直なものでしかない。

で、靖国神社って「どういうところ」なんでしょね。いってみたら、いちお「儀礼」はするつもりですけどもね。

グーグル:「靖国神社 フィールドワーク」