本をだれが いかに よもうとも自由であり、読者とは、すべてのひとでありうる。社会の公正を重視するならば、出版する側は、すべてのひとを読者に想定しているべきである。しかし現実には、日本の後進性は、一定の人しか「読者」の対象にしていない。だから、本をよめるひとと よめないひとが生じることになる。なかなか気づきにくいことだが、「本をよめるために必要なこと」は、たくさんある。げ。さっき「あいまいな「わたしたち」」で「はたして、わたしは、だれに かたりかけているのだろうか。だれが よんでいるのだろうか。」と かいた わたしは。わたしは。わたしは。
おおくのひとは、読書権がすでに保障されているが、さまざまな社会的弱者は、読書権が侵害されている。なぜに「かれら」には読書権が保障されていないのかをとうよりも、なぜに「おおくのひと」には読書権が保障されてきたのか、その「おおくのひと」は「社会的弱者」と なにが ちがうのかを詳細にみてみる必要がある。「本をよめる」とは、どういうことなのかをかんがえてみると、自分のたち位置がみえてくる。その位置は、「文化人」だの「教養人」だのという位置ではないのだ。
過去の自分に説教されているような感覚でありました。そうですね、読者とは、すべてのひとで ありうるのですね。