北海道におけるイオマンテの儀式は1955年に北海道知事名により出された通達によって「野蛮な儀式」とされ事実上禁止されたが、2007年4月、通達は撤回された。(「イオマンテ - ウィキペディア」)この「イオマンテ解禁」がニュースサイトで紹介されてるわけなんですけど、一部の動物愛護を議論するひとが、これに「反対の意見をおくろう」というはなしをしている。
野蛮だとか日本は先進国なんだからとか、なかなか すごいことをいっている。北海道知事や北海道ウタリ協会などに意見をおくるんですと。はあ。
いやね、あたしだって動物愛護に共感しないところがないわけではないですよ。けっこう厳格なベジタリアン生活も経験しましたし、そのへんのムシも、できるかぎりは ころさないようにはしているつもりです。イオマンテもね、クマをころさずに儀式をとりおこなうことも可能でしょうよ、それは。禁止されてきたもんだから、これまでは そうせざるをえなかったわけですからね。
けど、なぜに個々人の和人が のこのこと植民地主義の再生産をやるのよ。逆説的だけど、アイヌの文化を固定化するのは同化政策であって、当事者じゃないわよ。和人がアイヌを支配してきたから、「禁止」できたわけでしょう。禁止なんか されてなかったら、みずから「簡略化」をえらんでいたかも しれないでしょう。「現代的感覚」に あわせて、ね。
べっつに、現代的感覚とやらを肯定するつもりはないし、「簡略化」する必要があるなんて全然おもっていない。アイヌ文化を賛美すれば和人の過去が浄化されるとも おもっていない。イオマンテを消費の対象として みなすつもりもない。
いまになって通達を撤回しますだなんてことになってしまった、この日本という国家の歴史が おそろしいだけです。残酷だとか野蛮だとか、50年前といっしょの発想でもってイオマンテに いちゃもんをつけるひとの意識というものが、ただ、むなくそ わるいだけです。
「原始人じゃあるまいし」って…。
坂口安吾(さかぐち・あんご)は、伝統よりも生活が大事だといった。わたしも同感だ。和人は近代以降、自分たちの文化をそれほど厳格に重視してこなかった。それは、伝統にすがるよりも、あらたな生活習慣が魅力だったからだろう。もちろん、国際関係の権力のバランスによって、アメリカやヨーロッパの生活習慣に あこがれるように しむけられてきたという側面はある。だが、カッコつきではあれ、選択する「自由」はあった。アイヌよりは はるかに、自由があった。
アイヌを支配しつづけてきて、そして、いまになってイオマンテを「解禁」しますよということにした。そこに動物愛護の観点から、あらためて、野蛮だから やめてほしいと おっしゃる。
「クマに罪はない」という観点にたてば、絶対的に「正しい位置」に たてるそうだ。自由とは、かくも都合のよい権力だ。
どんなに動物愛護に共感しようとも、わたしは人間中心主義を否定する気にはとてもなれない。人間関係に不平等がなくならないかぎり、人間中心主義の否定や「動物の権利論」をみとめるつもりはない。動物の権利論は、この世界の非対称な関係、権力関係をわすれさり、おおいかくし、感情という無敵の論理によって世界を断罪する。
世界全体が断罪されるとき、もっとも被害をこうむるのは少数派なのだ。
人間中心主義を肯定しつつ、動物の処遇を改善していくことは両立できる。