粥川準二(かゆかわ・じゅんじ)「ヒトクローン・ウォーズ」『現代思想』2004年11月号から引用。
「原理的に考えてみよう。実際のところ、ヒトクローン胚の形成には、どうしても大量の――おそらく数百個単位の――卵子が必要になる。それを倫理的な問題を起こすことなく入手できるのだろうか。卵子は精子や体細胞と違って、採取するには提供者に肉体的・精神的負担をかけざるをえない。しかもその負担が女性だけに一方的にかかることをどう考えるべきなのか。」(227ページより)韓国であれだけの大量の卵子をつかってヒトクローンES細胞(胚性幹細胞)作成にとりくめたのにも背景がある。不妊治療がかなり推進されており、卵子に関する倫理規制が「柔軟」だったからだ。こづくりが夫婦、ひいては一族の一大事であり、さらには息子をうまねばならないという発想がいきづく社会だから可能だったということだ。ファン・ウソク氏が国民的英雄じゃなければ、卵子提供しますって人が1000人もあらわれなかったわけだし。まぁ、今回は黒影さんのブログの記事「黄教授捏造を認める-存在しなかったクローンES細胞-」をご覧になれば わかるように、大変なことになってしまったわけだが(そもそもファン氏は倫理の りの字も わかってなかった)。
ともかく、なんだか自分のなかで いきおいづいてしまった。日曜に かってきた本をメモ。
小泉義之(こいずみ・よしゆき)『生殖の哲学』河出書房新社、松原洋子(まつばら・ようこ)『生命の臨界―争点としての生命』人文書院、坂井律子(さかい・りつこ)/春日真人(かすが・まさひと)『つくられる命―AID・卵子提供・クローン技術』NHK出版、福本英子(ふくもと・えいこ)『人・資源化への危険な坂道―ヒトゲノム解析・クローン技術・ES細胞・遺伝子治療』現代書館、中村桂子(なかむら・けいこ)『生命科学者ノート』岩波現代文庫、佐藤文隆(さとう・ふみたか)『科学と幸福』岩波現代文庫、廣重 徹(ひろしげ・てつ)『科学の社会史(上)戦争と科学』/『科学の社会史(下)経済成長と科学』岩波現代文庫、米山公啓(よねやま・きみひろ)『医学は科学ではない』ちくま新書。
んー、生命やら科学やらと関係ない本は、鈴木貞美(すずき・さだみ)『日本の文化ナショナリズム』平凡社新書だけか。ま、そういうときもある。ぬ、この鈴木さん『「生命」で読む日本近代』って本だしてるのね。
小泉義之さんの本は、はじめてだ。これから あれこれ よんでいこうかと おもう。意欲的で、いうべきことをいっている感じがする。意欲的部分が、どれだけ わたしでも共感できるのかどうかという、なかなかスリルある読書になりそう。
あと、まだ そろえていないが、やはり不妊治療についての議論をよまないといけないと おもった。まさの・あつこさんの『日本で不妊治療を受けるということ』(岩波書店)くらいは よんで手もとにおいておかねば。
とりあえず、坂口安吾(さかぐち・あんご)の一節を「戦争論」から引用しておく。
両親とその子供によってつくられている家の形態は、全世界の生活の地盤として極めて強く根を張っており、それに反逆することは、平和な生活をみだすものとして、罪悪視され、現に姦通罪の如き実罪をも構成していた。やっぱり安吾が わたしの ふるさとだ。イ・ドゥクジェ『家族主義は野蛮だ』とキム・ウンシル『女性のからだ、からだの文化政治学』あたりをよみなおしてみよう。かみしめるべきは、「少しずつよくなれ」という安吾の信念のごとき ひとことだ。
私は、然し、家の制度の合理性を疑っているのである。
家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠牲になるが、他人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かかる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。…中略…
家は人間をゆがめていると私は思う。誰の子でもない、人間の子供。その正しさ、ひろさ、あたたかさは、家の子供にはないものである。
人間は、家の制度を失うことによって、現在までの秩序は失うけれども、それ以上の秩序を、わがものとすると私は信じているのだ。
グーグル:「生命科学 卵子」