わたしたちが「わたしたち」というとき、わたしたちは、だれにむけて はなしかけているのでしょうか。その「わたしたち」とは、だれのことをさし、また、だれのことは ささないのでしょうか。
自分の文章をよみかえして、あ、やっちゃったと感じたのですが、かいてしまったものは しかたがない。
自閉者のコミュニケーションが自分勝手だと感じたとき、まさに、わたしたちは、そこに鏡に うつった自分のすがたを発見するときなのです。(「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」より)わたしたちというのは、人類全体をさすこともあれば、一部をさすこともある。同時代をいきているひと全体の場合もあれば、歴史上のひと すべてをさすこともあるかもしれない。
だが、社会を論じ、差別や格差の解消を論じるようなときだけは、せめて、だれかを排除したかたちで「わたしたち」をかたらないようにしたい。
ただ、社会の多数派が かかえている問題を、社会全体の問題にすりかえて、少数派にまで責任をおしつけてしまうようなかたちでの「わたしたち」も よろしくない。
責任の所在をはっきりさせながら、社会の全体、社会の構成員をすべて みすえていく、なるべく そうすることをめざしていく必要がある。もちろん、ひとりで できることは かぎられているし、ほんとうに社会全体をみわたすことなど、ひとりの個人にできるものではない。だけれども、目標としては、全体をみようとすることが たいせつなのではないかと おもう。
「わたしたち」とか、「人間は」と表現するとき、ほんとうに一般化して かたることのできる内容であるのか、ひと呼吸をおいて、検討してみることにしたい。かたりかけている対象のなかに、「わたしたち」から除外している だれかが ふくまれていないかどうかも確認してみないといけない。
はたして、わたしは、だれに かたりかけているのだろうか。だれが よんでいるのだろうか。それさえ わからないなかで、わたしは。わたしは。わたしは。
ちょっと ぼんやりとして、けれども慎重に、かんがえていきたい。
「わたしたち」で このブログを検索。たくさん つかってるね。