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坂口安吾の おもしろさ

大学1年のころ、坂口安吾(さかぐち・あんご)に はまってました。

ひさしぶりに パラよみしてみた。いろいろ「名ゼリフ」に線が ひいてある。なかでも安吾の思想が はっきり でている文章を引用します。
すべて人間の世界に於ては、物は在るものではなく、つくるものだ。私はそう信じています。だから私は現実に絶望しても、生き行くことには絶望しない。本能は悲しいものですよ。どうすることも出来ない物、不変なもの、絶対のもの、身に負うたこの重さ、こんなイヤなものはないよ。だが、モラルも、感情も、これは人工的なものですよ。つくりうるものです。だから、人間の生活は、本能もひっくるめて、つくることが出来ます。(「余はベンメイす」より)
安吾は、過去の産物や遺産、「伝統」よりも、「これから」、「未来」に興味をしめした。そして、「少しずつ良くなれ」と主張した(「続堕落論」など多数)。ことばについても「外来語是非」、「敬語論」、「戦後文章論」、「新カナヅカヒの問題」、「文字と速力と文学」などのエッセイをのこしている。

まぁ、いまさら安吾なんて よまずに いかしたブログでも よんでるほーが、安吾的なのかも しれない。でも、なかなか みつからないやね。そんなの。いまをいきる「わたし」が こころから共感し、ふかく うなづけるのは やっぱり現代のものであるはずで、時代を共有していない安吾ではないのではないか。それも ごもっともな はなし。現代的意義が どーたらって よく いいますが、なんで安吾を「いま」よんでるのか、理由を説明するのは むずかしいやね。「なんとなく すきなんだ」と いえれば楽なんだけど、それで納得できるわけではない。あとづけで説明しても本来の気もちからは むしろ とおざかっていく。なにかを「ことばにする」ことの むずかしさが ここにある。いろんなことを、ずばりと ことばで表現していた安吾は、やっぱり ただものではないと おもう。

「坂口安吾」 / 「人生はつくるものだ」ググる