かなしいくらいに どうでもいいこと。あぁ、そんなことがニュースになりますね。
なんて いいましょうか。どこまでも どうでもいいこと。こだわっちゃ いけない。こだわってちゃ だめだ。
参拝しましたとニュースが ながれる。ニュースくらいは いいだろう。けれども、どうでも いいことだ。問題だから批判すると。あぁ、そうですか。よくやった! 感動したから ほめたげる。あぁ、そうですか。
そもそも、どうでも いいことなんだよなぁ。葬式だの、墓だの。追悼だの、儀式だ、神だ。うるせーよ。
ヤスクニで戦争動員ですか。はぁ。かなしくなりますね。そんなことが可能であったということが。戦死してもヤスクニで神さまになれるだのなんだのなんていう、くそくらえな話を、たったひとりさえ信じはしなかっただのだと、そう おもいたい。わたし ひとりだけでも そう ねがいたい。ヤスクニで戦争動員しただなんて、ヤスクニバンザイな人たちの妄想にすぎない。ヤスクニが はたした役割があったとしても、問題なのは、「なにをしたのか」だ。ヤスクニは、客よせみたいなもんだろ。「客」じゃないけど。
ヤスクニのうそっぱちを信じた人が山ほどいたとしても、みつめるべきは、そんな かなしき人間の姿だけだ。
ヤスクニか。あんなもん、かなしき人の姿をうつしだす過去のカケラだろ。でも、かなしいことに「過去のカケラ」になれないでいる、「現在のカケラ」なのよな。それを直視することには まんざらでもない。けれども、そろそろ「どうでもいいことだ」っていうアッケラカン主義を発揚しないか。
「一体なにをしたのか」をみつめずに、ヤスクニ、ヤスクニいっているのは、はぁ。どういうことなのだろう? わたしがヤスクニを見物して、なにより感じたこと。それは、道のりは とおいなと。そんな、かなしい現実であった。なにをしたのかをみつめずにいられること。ヤスクニ是か非かなんてことで時間をつぶしていられるということ。あぁ、いかにも すばらしい世界であることよ。「悲劇、排除されるべし」。そうか。
めくらましばかりが幅をきかせて、あぁ、鏡だけは鮮明であることよ。おかげで、他人の姿は さっぱり みえないや。他人が みえずして、自分の姿が みえるわけがないのにね。
グーグル:「どうでもいい 靖国」