どうすれば生産的な議論ができるのだろう。どうすれば おたがいのためになる対話ができるのだろう。わからない。わからないからこそ もがきつづける。ときおり不安になったとしても、それで いい。
だれもが すっきりとした生活をおくってないのだから、すっきりとした主張というのは どこにも ありえない。単純にAとBとに分類できるほど、人間は単純じゃない。でも、ある程度は単純化も必要だ。それぞれの役まわりを演じることも必要だ。相手のはなしをあえて否定することも必要だ。でも、自分を中立な安全地帯におくことでは議論はすすまない。
おたがいが自分をさらけだし、なやんでいることをすべて うちあけるような対話であれば、そこには共感がうまれる。信頼がうまれる。安心がうまれる。そして なにか変化がうまれる。
なにも たしかなことはない。わからないことだらけだ。それでも いきていく。それでも かたりあっていく。もがきつづけることで、それでも自分をゆるがしていく。何度も何度も ことばにしていく。だれをも きりすてない。だれをも否定しない。だけど、安易に肯定しない。わかったような気にならない。わかったような気にさせない。わからないことをわからないと いえる環境をつくる。そして もう一度かたりあう。くりかえす。くりかえす。何度も何度もくりかえす。なにも おわらない。いつまでも つづいてく。だけど、いつかは おわりをとげる。自分が死んだら おわりをとげる。だったら、死ぬまで かたりつづける。
グーグル:「てさぐりで」 / 「生産的な議論」