『パッチギ!』って映画が みたいんだけどな。近所の古本屋のなかにあるレンタルビデオ屋で かりようと おもったら、中古ビデオ・DVD販売だけになってた…。『血と骨』のビデオを300円で購入。
ううむ。『血と骨』は、こんな映画もあるのかという感じ。怪物が怪物として いきた半生を怪物として えがいている。ブタの解体シーンには なんとも おもわなかったけど、あれがダメだという人がいるみたいね。けっ。くだらん。高校のセンセのことばをおもいだす。「冷蔵庫みてみろ、死体おきばじゃないか」。
暴力というのも、あそこまで いくとポカーンとなってしまう。でも、こわいけど。
なんとも印象的だったのは、『GO!』で朝鮮学校の教師役だった人が『血と骨』では戦時中「内鮮一体」の推進者で、戦後=解放後/敗戦後(立場によって ちがうぞえ)は「民族反逆者」として糾弾されリンチされているシーンだ。
塩見三省(しおみ・さんせい)さん演じる『GO!』の教師は主人公が日本の高校にいくという話をきいて、「民族反逆者」といって なぐりかかる。そこで、主人公の親友ジョンイルの名言が とびだす。あえて、そのセリフは かかないでおこう。
『血と骨』では糾弾されながら、「国のない俺たちにどんな道があったというんだ(나라 없는 우리들에게 어떤 길이 있었단 말이야)」という。
「国がなかったら、つくればいいじゃない」という単純な話ではありえないところに、国民国家の暴力があり、残存している日本帝国主義の原罪もまた、そこにある。
『GO!』はヒロインなんかよりも(失礼!)ジョンイルの魅力が きわだっている。だからこそ、それをみる わたしは、やりようのない気もちになる。ジョンイルに胸をはれる日が いつか おとずれるのだろうか。そんな他人まかせな話ではないし、社会の一員としての責任もあれば、わたしなりに はたしていくべき役割もある。
「他者」をアイデンティティの政治の隘路(あいろ)に まよいこませる多数派の生活。だれでもなく、属性もないという権力。アイデンティティからの自由。『GO!』の最後で主人公が だした結論のようなものが、じつは多数派日本人が毎日、当然のこととして享受している日常なのだ。この非対称性をみつめる必要がある。
グーグル:「国民国家の暴力」