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身勝手な期待と想定

すばらしい本を紹介しよう。

わたしが最近かきちらしている記事をすこしでも おもしろいと感じていただけた かたは、飯沼和三(いいぬま・かずそう)『ダウン症は病気じゃない-正しい理解と保育・療育のために』大月書店をよんでほしい。3章の「ダウン症の知的能力とことば」が すばらしい。

ところで。

これは、杉山登志郎(すぎやま・としろう)さんの『発達障害の豊かな世界』をよみなおしたときから感じていることだが、「自閉症へのまなざし」の再検討は必要だし、重要な作業だが、「ダウン症へのまなざし」もまた重要な課題であるということ。

また、「ダウン症へのまなざし」を再検討するうちに、「自閉症論のオリエンタリズム的性格」が あきらかになるのではないかという気がしている。もちろん、わたしの文章においてもだ。そのへんをかんがえるうえで、村瀬学(むらせ・まなぶ)『自閉症-これまでの見解に異議あり!』ちくま新書と最近になって復刊された小澤勲(おざわ・いさお)『自閉症とは何か』も参考にしないといけない。この2冊は、「ちがいがあること」をみとめるのを最大限に さけようとしているのだが、あまり賛同できない。だが、だからこそ、わたしにとって よむ必要があるのであり、たいせつな本だ。


ここで念頭にあるのは、相手をみるとき、いつもそこには自分自身が てらしだされているのだということ。そして、相手になにを期待しているのかによって、そのひとの みえかたが かわってくるということ。勝手に想定しておいて、それとは べつの様相をみせたから、このひとは「この程度のものだ」という評価のしかたは まちがっている。だが、そういう ものの見方を、わたしたちは、よくもまあ日常的にしている。

「このひとは、こういうひとだ」が、かんたんに「こうあるべきだ」に かわってしまう。それで、「そうでも なかった」というふうに感じて、手のひらをひっくりかえして、評価をさげてしまったり。どんだけマッチポンプなんだろうか。

相手をよく評価しようとも、けなそうとも、いつもその評価のことばには、自分のすがたが反映されている。「わたし」をすてさったところに、他人をみる「まなざし」は成立しない。いや、これは ことばあそびで、そのひとを「みている」のは、ほかならぬ、「ひとりの個人」としての「わたし」に ほかならないということだ。その「わたし」を、だれでもない、「みんな」だと錯覚しては だめだ。主観は、どこまでも主観だ。

わたしが なにを期待しており、なにをどのように あらかじめ想定してしまっているのか。あとになってからしか意識しえないが、それをふりかえってみる必要がある。