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すべての少数派は障害者である

おもわず ひざをたたいた。佐倉智美(さくら・ともみ)『性同一性障害社会学現代書館のことである。

もくじをみて、これは いいという印象をうけた。もくじに「トランスジェンダーと障害学~「障害者用トイレ」からノーマライゼーションを考える」をみつけて、これは?と、むねをおどらせました。

きました。きました。これこれ。
つまり「性同一性”障害”」が「障害」ではないとしたら、なんのことはない、一般的な障害者の障害も、じつは「障害」ではなかったのである。「セクシャルマイノリティ」という用語になぞらえれば、身体障害者は身体的マイノリティ、知的障害者なら知的マイノリティだったのだ(202-203ページ)
そうなのですよ。「性同一性障害」というくくりに違和感をおぼえ、「障害」というのは ちがうのではないか?という疑問をもつのは ただしい。けれども、たしかに病理的存在はいるのだという前提をゆるがすことなしに、「トランスジェンダーは障害じゃない」と いってしまうことには、あきらかな おとしあながあるのだ。

それは、「「病気じゃない!」が実体化するもの」に かいたとおりである。

障害学をやっているひと、関心があるひとに ぜひとも おさえておいていただきたい文献は、木村晴美(きむら・はるみ)/市田泰弘(いちだ・やすひろ)「ろう文化宣言以後」であります。ハーラン・レイン編 2000『聾の経験―18世紀における手話の「発見」』という、多少お値段のはる本に特別掲載された原稿である。3度にわたって活字化された「ろう文化宣言」よりも はるかに知名度が おちるが、とても重要な文献であると おもっている。
…障害者運動のほうもすでに病理的視点から社会的視点へと転換しているのだという主張がある(長瀬修氏)。しかし、そのような「社会的視点」に立てば、すべての「障害」は相対化され、誰もがある意味では「障害者」であるということになってしまう。そのような主張に異義を唱える気はないが、そこで用いられている「障害者」という言葉は、もはや「少数者」(あるいは「社会的弱者」)という言葉と同義であることに注意する必要がある。もしも、さまざまな「少数者」(そこには「言語的少数者」も含まれる)の中で「障害者」というグループを特化しようとするならば、そこには「病理的な視点」が欠かせないはずである。まず、病理的な意味での「障害」をもつ人たちがいて、その人たちが必要に応じて(本当に「必要」なのか、誰にとって「必要」なのかが問題なのではあるが)一括りにされて「障害者」と呼ばれるのでなければ、「障害者」という言葉自体、存在意義がないのである(単に「少数者」と呼べばよい)。(398ページ)
どうだろうか。社会的事実として、いま現に社会で「障害者」とみなされているということに根拠をおくならば、「病理的な視点」は障害学内部に ふくまれるのではなく、社会に属している、とはいえる。だが、障害学が社会的障壁と身体的損傷を区別し、社会的障壁=社会的に「できなくさせられていること」を問題化していくならば、障害学の課題は、「いわゆる障害者」にかんすることだけには とどまらないはずである。

現代思想編集部編『ろう文化』をよんで、学部生だった当時とても参考になったのが、長瀬修(ながせ・おさむ)「<障害>の視点から見たろう文化」だった。これをよんで かんがえたのは、視覚障害者とは情報障害者のことであるということだった。

移動障害者、情報障害者…。さまざまな表現が かんがえられるわけだが、ちょっと まってほしい。たとえば、情報障害者というのは、たんに いわゆる知的障害者聴覚障害者、視覚障害者に限定されるものだろうか? 言語的少数派は いかに。貧困者は いかに。

まじめに障害学をするということは、ある部分において、ある意味において、「障害学をすてさること」であると、わたしは かんがえている。

障害学の用語に社会モデルというのがある。医療モデルや個人モデルに対比される概念で、障害者の「問題」とは、個々人の身体に問題があるのではなく、社会に問題があるのだという明確な主張のことだ。重要なのは、社会モデルという用語ではない。問題意識である。社会モデルという、なんだか こむつかしそうに感じさせる用語(あるいは、業界内部でだけ通用する用語)を乱用することもまた、社会モデルの精神に反することであると かんがえてきた。だから、ほかのひとが社会モデルという用語をつかうことには まったく反対しないが、わたしは、社会モデルということばは、これまでも つかってはいないし、これからも つかうつもりはない。


そんなことをいう わたしは、原理主義者なのだろうか。それはともかく、ある部分において、このように かんがえておくことも、また必要なことだと かんがえるのである。

付記:引用ミスがありましたので訂正しました(5月25日)。