ひきこもりは存在しない!
どこに いるんだよ、ひきこもってる ひとなんて。絶対に自分の部屋から外に でないひとなんて いないんじゃないの? しらないけど。夜は外にでるとかさ、その部屋はインターネットにつながっていて、いろんなひととコミュニケーションをとってたりさ。
全然ひきこもってないんだよ。メールとかチャットとか掲示板の かきこみとかしているのに「外にでない」ってだけで、なんで「ひきこもり」ってことになっちゃうの? 基準が おかしいよ、基準が。夜に「外にでる」んなら、ひきこもりじゃないってば。
なかにはさ、パソコンも電話も もってなくて、部屋の外にも全然でないひとってのも いるのかもしれませんよ。そういうひとは、ええ、たしかに ひきこもりかもしれませんね。もし、そういうひとも いるんでしたら、わたしの発言は不適切でした。さっそく謝罪しておきたいと おもいます。
ええと、ここで いいたいのは どういうことかってーとだな。ひとはだれも、「ひきこもり」っていうワクに おさまりきらないってことなんだよ。定義に すっぽり おさまりきるほど人間は単純ではないし、人間をみる観点も一様ではないのですよ。観点が多様であるなら、ひとつの定義は、たったひとつの観点にすぎないものになり、相対的で一面的なものでしかなくなります。もはや定義は「はかないもの」になります。そして、それで いいのです。それが、いいのです。
一回かぎりの定義を、なんべんも つかいまわしてると どうなるか。想像してみなさいよ。ひとつのコンドームをなんべんも つかっちゃいけないように、定義は一回かぎりのもので、つかいまわしちゃいけないのです。
だれかが なんらかの目的で くだした定義や観点を、ほかのひとが文脈のちがうところで流用してはいけないのです。定義をなくせとは いいません。もっと いろんな定義をくりだしましょう。定義をぬりかえましょう。定義をならべたてましょう。
そうすると!
もはや、支配的だった ひとつの定義は、ちからをうしないます。たし算の勝利です。
ひとは だれも、ひとつの定義に おさまりきらない。矛盾するのが あたりまえで、一貫性をどこかで うしなってしまうのが当然で、だれかに定義されながらも その定義を破壊するのが人間なのです。「人間は自由である」とは そういうことです。
破壊するとは つくりあげるということで、つくりあげることは破壊されることをさそいます。矛盾を指摘するのは ばかげた倫理で、人間の自由を、人間の多様性を、人間の観点や価値観の多様性を、かろんじているのです。そんな あまっちょろい発想の もちぬしに、批判される いわれなどありません。安心して矛盾しよう! それこそが、価値体制をぶちこわし、社会をつくりかえる原動力では ありませんか?