確信が ゆらぐときにこそ、不安定ななかで なにかをつかまないと いけない。
こわだかに なにかを批判するのは、ある意味では楽だ。精神的にも興奮状態にあり、なにかを確信できているからだ。しかし、ふと われに かえったとき、ふと疑問をもったとき、心が しずまったとき、あるものに気づかされる。はたして、自分は正義だったのかと。ただしかったのかと。
社会が わるい、政治家が わるい。ごもっともだ。だけれども、わたしや あなた ひとりひとりは、一体なんなんだろう。全体のなかの一部には、一部としての役割があり、責任がある。だれひとりとして、外部には いないのだ。問題の内側にいる。象徴的なものだけを攻撃する前に、それが自分のすがたが投影されたものだということを、かみしめる必要がある。
「問題を個人的なものに還元するな」。しごく ごもっとも。しかし、個人的とされるものは、なべて社会的だ。社会の縮図なのだ。それぞれの個人の問題をかんがえないということは、自分自身を弁護する態度でもあるだろう。自分の役割をかんがえるということは、表面的には「個人の問題に還元している」ように みえるだろう。地の足についた議論は、安易に結論をださない。そして、それぞれが みいだす結論に希望をみいだすのだ。
グーグル:「安易な結論」