要するに、いきたいように いきれば いいよ。
でも、それをみいだすのは、それほど かんたんなことではないだろう。そこが肝心なところだ。
わたしは、どのように いきたいのか。いろんなことを かんがえつつ、んーーーっと なやみながら、こたえをだす。こたえが でないまま いきる。
なにが なんだか わからない。ほんとうに そうだよ。坂口安吾(さかぐち・あんご)は、
「続堕落論」で「まず裸になり、とらわれたるタブーをすて、己の真実の声をもとめよ」と のべている。「己の真実の声」というものが はたして あるもんだろうかとも おもうが、いいたいことは わかる。わかるけれども、それが なしがたいことであるということも想像できる。だから、安吾も「我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない」とする。「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない」からである。そんなものだろう。(自己犠牲よりはエゴイズムを)これをかいたのは2年まえだが、いまでも そう おもっている。
「まず裸になる」ということは、かんたんなことじゃない。
「とらわれたるタブーをすてる」ことも、かんたんじゃない。
「己の真実の声をもとめる」ことも、なにが なんだか わからない。
わかりませんよ。わかりますか。