hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

断言しても仕方がない。だけども、それでも とりあえず。

こたえは模索するものであって、永久不変の真理を発見するというものではない。どんな こたえも時代に即したものであるし、個々人が みいだした こたえは、個々人の背景に即したものである。それを自覚した議論は、とても おもしろい。
私は、闘う、という言葉が許されてよろしい場合は、ただ一つしかないと信じている。それは自由の確立、の場合である。もとより、自由にも限度がある。自由の確立と正しい限界の発見のために、各人が各人の時代に於いて、努力と工夫を払わねばならないものだ。歴史的な全人類のためではなく、生きつつある自分のために、又、自分と共に生きつつある他人のために。そして、それが、歴史的な全人類につながる唯一の道である。(坂口安吾戦争論」より)
ファイナルアンサーというのは、時間を制限された状況のなかで、「とりあえず こたえてみる」ということでしかない。

『あなたへの社会構成主義』(ケネス・J・ガーゲン、ナカニシヤ出版)という本が気にいったので、すこし引用する。
「事実」についてある説明を固く信じている時、私たちは、他の可能性に対して自らを閉ざしてしまっています。この意味で、私たちにとって最も明白なものこそが、実は最も限定されたものであるといえます。(328ページ)
ガーゲンは、対話を重視し、未来に目をむけている。だから、「この本は、始まりであって、決して『最終的な結論』ではないのです」(iより)と ひらかれた姿勢を提示しているし、「批判に答える」という章で想定される疑問や批判と対話しようとしている。

わたしのような人間は、NGワードをみつけたりすると、対話をつづける気力をうしなってしまう。寛容さというのは、思想のふかさの あらわれなのでしょうね(性格の問題だとは おもわない。「思想」と「性格」については次回に)

グーグル:「対話 社会構築主義」