最近、どうしようもない議論を展開するひとに でくわした。ミクシィというコミュニティサイトでのことだが、失礼なのと非論理的なのと自信たっぷりが あわさったかんじ。勉強家なのは わかるんだけどねー。もーちょっと、いうことに説得力をもたせましょうねー。ひとつのことをのべるのに関係ないことをもちだすのは やめましょうねーという。
こういうひとに対する反応として、「謝罪しなさい」といった批判が でてくることがある。だーけどね。わたしが おもうに、態度の問題にしてしまっては いけないのよね。戦略的には。
失礼じゃないかといった批判は、しごく まっとうなのだけど、そういうひとには「情緒的で感情的な反応」と みなされてしまうのです。挑発的で独善的なひとは、そういった反応には なれっこなわけで、いたくも かゆくもない。「あー。なんか いってるな」というので おわる。
態度や口調はいっさい無視して、論理展開が おかしいことや、認識が あやまっていることを指摘するだけでいい。けど、指摘しても、結局きちんとは よんではくれないので、さらなる反論などをみて がっくりすることになる。自分が 指さしているところしか みえてないと、そうなっちゃいますね。
そのひとが なにをなやんできたか、なにを経験してきて、なにをいま かんがえているのか。そんなもん、他人は しらないんですよ。すこーしだけ解説してみても、共感できるほどには つたわらないんですよ。しったこっちゃねーというやつです。なんで理解されないのかと疑問にもつまえに、いろいろ計算して議論しなさいよと いいたい。いっておきたい。自分に いいきかせたい。
偏見の根っこにあるのは、「論理的じゃない」ということなんだろうか。だめな三段論法をみせられて、ちょっと かんがえさせられた。
なんだか、論理的なひとなら偏見をもたないんじゃないかとか、結局、ぜんぶ知識の問題なんじゃないかとか、最近そんなふうに感じることがある。議論のよしあしも、関係のむすびかたの よしあしによって きまるもので、それはコミュニケーションのとりかた、つまりは、そういう能力の問題なんじゃないかと。知識や能力なんてのは、たんに個人の問題に帰することはできないものだ。環境の影響がおおきいわけだし、たまたまというのもあるし、そのひとに そなわった能力というのもあるし。
罪をにくんで ひとをにくまず。ということにしたら ええのかな。まー。あるひとの「意見に対する批判」を人格攻撃のように みなすひともいるしねえ。感情が まじってくると、どうも めんどくさい。だーけど、完全には排除できないのが感情ってもんですわね。わたしも、そゆこと けっこうあるし。気をつけることにする。