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紹介『動物の命は人間より軽いのか』

マーク・ベコフ著。副題は「世界最先端の動物保護思想」。中央公論新社
ツンドクしてましたが、このたび ざっと よみました。

ベコフは動物の処遇に「「正しい」答えも、「間違っている」答えもない」とし、だが、「「もっといい」答え、あるいは「もっと悪い」答えというものはあ」るとする(23ページ)。そして、「私たちが動物とどのような関係をもつかということは、私たちがどのように自分自身、また、他の人間たちとかかわりをもつかということと密接な関係があります」としている(24ページ)。重要な指摘だと感じられる。

たとえば、つぎのような記述は、人間同士のコミュニケーションにも あてはまる教訓だ。
イヌはイヌとして、自分がイヌであるために必要なことをしますが、彼らは独自の「イヌの頭のよさ」をもっています。また、サルはサルとして必要なことをします。つまり、サルはサルとしての独自のやり方で「頭のよさ」があります。そのどちらも、必ずしも相手のサル、またはイヌより頭がよいというわけではありません(68ページ)。

ミシガン大学バーバラ・スマッツ(霊長類学者)の発言の紹介]「…前略…他の動物たちと私たちの関係で、私たちのほとんどが出会う限界は、たびたび私たちが決めてかかるように、その動物たちの短所を反映するのではなく、私たち自身の狭い見解を、つまり動物たちがどんなもので私たちが彼らとどんな関係をもてるのかについて、私たちがもっている狭い考えを示しています」(189ページ)
どちらも、関係性をじっくり検討していくことで えられる発見であるといえる。なぜか わたしたちは、ひとつの基準をもうけ、比較する必然性はないのにも かかわらず、比較してしまい、優劣をきめてしまう。そして、その安直さに気づくことは すくない。

どのような必要があったのか わからないが、人間だけに特有な行動とはなにか? 人間と ほかの動物を区別するものはなにか?ということが議論されてきた。西洋哲学のながれかな。

ヒトは道具をつかうとか、言語をつかうとかね。いや、動物も道具は つかうようだとか、言語も つかうよとか。いや、ヒトの言語と おなじ形態の「言語」ではないという議論にもなり(その点にかんしては、わたしは、動物もコミュニケーションをとるが、言語学的意味での言語ではないと とらえている。言語の定義は「比喩」ではないためだ。言語学は、ことばあそびではない)。

けどね、人権をみとめるように動物の権利をみとめようということにするとしても、動物の肖像権だとか、プライバシーとか、裁判をうける権利とか、学習権とか、そんなものはないんですよ。なぜって、動物は動物なりの世界をいきているからです。ヒトにある権利だから、すべて動物にも適用すべきとはならない。あたりまえのはなしだし、動物の肖像権とか、そんな動物の権利論は どこにもない。

動物の権利は、人間との かかわりにおいて うかびあがる問題群だ。だから、動物の権利は、「ヒトからの自由」として とらえると わかりやすいだろう。ヒトの勝手で動物園に かりだされない自由(権利)とか、人体実験の代用として利用されない自由(権利)など。

結局は、主体性はヒトにあるともいえる。だから、ヒトの規範的「義務」として とらえることもできる。動物愛護法などは、そのような規定である。

わたしは、どのように動物と接したいのか、あるいは、接しないで「そっとしておきたい」のか。そのような個々人の意識の総体によって、民主的に動物の権利をかんがえていけば よいのだといえる。動物の「ヒトからの自由」をみとめるとしても、どこまで みとめるのかということに「ひとつの正論」はありえない。それぞれの社会でそれぞれの時代に きめられるしかないものだ。

この本では、「人口の異例の爆発的な増加」に何度も ふれられている。それが動物の処遇を悪化させているという指摘なのだが、人口の増加が、どのような構造から生じるもので、どのような対策が講じられる必要があるかについて、著者の意見はみられない。もちろん、動物の権利をかたる本なのだから、そのような記述は不可欠ではない。

だが、「人間の人口が爆発的な増加を見せるとき、苦しむのは他の動物たち」であるというとき、あなたは、人口の爆発がどのような背景に成立しているかについて、すこしでも注意をはらっているのだろうか(23ページ)。人口が爆発的に増加するのは、この世界の権力関係によるものだということを、しっておく必要があるのではないだろうか。先進国の少子化は、安全で裕福で健康な生活が保障されていることによるものであり、途上国の人口爆発は、貧困や きれいな水の不足、女性差別などによって生じているのだ。

より「正しい」主張をとなえることも大切なのだが、自分が たっている地盤は、それほど正しくはないということをふりかえる必要がある。そうでなければ、どこの だれが、「アメリカ白人」の優等生な発言に、耳をかたむけるだろうか。動物の権利を主張する「日本人」とて、おなじことである。