hituziのブログじゃがー

ツイッターは おわった。もっぺんブログの時代じゃ。

いらぬ心配ごと

小説でも映画でも なんでもいいんだけど、ある ひとびとをえがいた作品が、批判的にとりあげられ、「このような描写は偏見を助長するんじゃないか?」と。

こむつかしい論評の世界では「表象」ということばが よく つかわれている。ある集団をえがく。それは実在の人物をあつかおうと、どうだろうと、その集団の一部であって、全体ではない。一部をえがくことによって全体を表現しようとする、そのような作品もあることだろう。そして、一部をみて それが全体だと みなそうとする、そんな鑑賞者もいることだろう。

けれども、作品は作者の手をはなれていく。どのようにも消費されうる。どのようにも読解できる。作品の力は、作者の力でもあり、それをたのしむ側の力量でもある。いかすことも できるし、ころすこともできる。

「これこれの作品は偏見を助長するからダメだ」というような発言は、わたしはそんな偏見をもったりしないけどね」という、おめでたい態度だ。わたしは ちがうけど、世間の連中は おばかさんだからねと。

「差別的だから」絶版を主張するようなひとたちも おなじだ。自分はすでに それをよんでいる。よんだうえで判断している。「判断できるわたし」という おえらい立場から、「世間のひとたちをまどわす作品」をけしさろうとする。

作品に政治的ただしさを要求するひとは、小説なり映画なりに、ひとつの回答をもとめている。ひとつの結論をもとめている。自分が よみとった解釈を絶対視する。

批判的であることが だめだとか、作品を尊重しろだとか、そんなことをいいたいのではない。柔軟に かんがえ、バランスをとれということだ。

ひとつの作品は、ある提示であり、その消費のしかたも、あるひとつの観点なのだ。

作品は作品としてあっていい。そして、批評は批評であっていい。みるか みないか、よむか よまないか。ほめるか、けなすか。たちどまるか、無視するか。すべて自分で きめることだ。他人に いらぬ心配はしないでよろしい。

この一文も、ひとの行動を制限しようと意図するものではなく、わたしの不満をのべているにすぎない。けれども、わたしの意図をはなれることも当然あろう。とはいえ、ひらくために かいていることで、とじるためではない。

…ひらく、とじるって なにをだろう。コミュニケーションかな? ともかくだ。わたしたちに必要なのは、たし算なのではないだろうか。たし算のための議論をしたい。