1. 観察対象としての言語
2. 行為としての言語
まず、1の「観察対象としての言語」って なんでしょうか。
目的: 科学みたいに「言語」を研究したい。法則をみつけたい。分類とかしてみたい。
方法: 連続する音のラレツ(言語音)を観察し、分解してみました。じゃあまず、「きのーおこのみやきおたべにいったらみせがしまってたよ」という文を観察するよ。これって「きのー、おこのみやきお、たべにいったら、みせが、しまってたよ」って分解できるんじゃないかな。そーに ちがいないよ。とりあえず、そーゆーことにするよ。しかも、これは「意味のまとまり」によって分解したってことにするからね!
ではつぎに、音をちいさく こまぎれに分解します。そしたら、「kinoo okonomiyakio tabeniittara misega simattetayo」って分解できるみたいだよ。こまかい手順はテレビで おなじみ「3分クッキング」みたいに省略するよ! とにかく言語音を「k」とか「o」とかって音までに分解できました。それを「音素」ということにします。音素って、なんだか「元素」みたいでしょ?
ソシュール先生は、これを「二重分節」って よんだんだって。言語ってのは連続する音のラレツなんだけど、それは「意味のまとまり」によって構成されていて、さらにそれは「音素」っていう音の「素材」によって できてるんだってことね。ぼくや あなたが はなしてる言語を観察すると、それは かぎりある音の素材をつかって意味のまとまりをつくっていて、それから その「意味のまとまり」をくみあわせて意思の伝達をしているみたいなんだ。音の素材を限定して、だけど、音の素材は あれこれ くみあわせて、意味のまとまりをつくる。そして、意味のまとまりをくみあわせて いろんな会話をする。こうすることのメリットは、かぎられた素材で いろんなことについて はなせるようになるってことなんだよ。
「意思の伝達が さきか、音素が さきか?」なんて哲学的な質問はしないでね! 言語は、部分(音素や意味のまとまり)と全体(意味をなす音の連続)のセット商品ってことにしたら いいと おもうよ。セット商品としての言語なんだよ。たぶんね。
ところでさ、数式ってあるでしょ? 「1+1=2」みたいな。これってね、ここでいう「1」とは「どのような1なのか」ってことは無視するんだよ。「1に1をたそうとしてたら、かたっぽの1が死んじゃった」みたいなさ、時間の概念も無視するんだよ。これはね、ノイズをとりのぞくってことなんだ。この世界には「いかなる1でもない1」なんて存在しないけど、お約束として、「ただの1」ってのを想定するの。どのような社会的で歴史的な色あいも もたない「1」、とか「2」、をイメージするんだ。なんでかって? 便宜のためだよ。
でね、ソシュール先生は、言語をラングとパロールに分類したそうなんだ。ラングはね、「なんかしらないけど話が通じあう人たち」の間で共有されてる、その会話(言語)についての知識のことなんだ。知識だから目には みえないんだよ。ラングは抽象的な概念だってことだね。パロールってのは、「ひとが じっさいに はなしてる」言語のことなんだ。だからパロールは具体的で物理的だと いえるよね。
でね、ソシュール先生は、ラングのほうを研究したかったんだ。てか、ほかの科学みたいに、抽象的ではあってもノイズをとりはらったかたちでの「言語そのもの」をソシュールさんは研究したかったそうなんだ。だから、ラングってのは数式のようなものってことだよ。
説明をいそいだけど、観察対象としての言語ってのは、うえに かいたようなことだよ。
じゃあ、2の「行為としての言語」って なんだろね? うえでいうパロール? パロールってことにするね?
◆言語を観察すると、「ハダカの言語」をとりだすことができる。
ひとが はなしているのを観察すると、記号の体系としてのラングのありようが あきらかになる。音素のくみあわせによって意味のまとまりをつくり、そして、意味のまとまりをくみあわせて意思の伝達を可能にする。そのような組織だった構造が観察できるのだ。
ハダカの言語とは、ノイズをとりさったものであり、ソシュールはそれをラングと よんだ。
ハダカの言語をラングとよぶ
ハダカとは、自然状態のことである
ラングは自然である
言語は自然物である
このような論理が もっともらしいか、論理的であるか、そうでないかに かかわらず、「ラングは自然である」と「するとしても」、言語知識としてのラングは、「人と人とのあいだにあるもの」であり、その意味で、
ラングは社会的産物である。
つまり、ここで「社会」とは、「(抽象的な)ラングの基盤としての(抽象的な)社会」なのである。
◆言語活動なしに言語は存在しない。
ラングは、じっさいに使用されることなしに観察できない。
言語とは、じっさいに使用され、いま使用されつつあるものである
言語が使用されつつある場所は、社会である
ゆえに、言語は社会的産物である。
ここでいう社会とは、「(具体的な)言語を使用する場所としての(具体的な)社会」のことである。
観察対象としての言語も行為としての言語も、どちらも社会的な産物であるには ちがいない。だが、その意味あいは、ことなっているのである。
どのような意味で社会的産物なのか?ということを、わすれてしまってはならない。
「言語は自然物である」という観点も、ある意図や目的が背景にある。ひとつには、言語を科学研究の対象にしたい、ということだ。ラングを「自然」とするのは、これはそもそもが お約束として、なのだ。研究するための お約束である。便宜のためである。
自然科学が、相対主義や構築主義の観点から論じられ、再検討されるようになったのは、それほど むかしのことではない。ともかくも、クーンのパラダイム論や知識社会学によって、自然科学の自明性をゆるがすようになった。それによって自然科学が敗北したということではないが、ともかくも、もはや「自然科学の全盛期」などではない。たとえば、「遺伝子決定論者」など、元気よく「自然科学者」を批判してみせる社会科学者の頭のなかにしか、ほとんど存在することはない。ドーキンスの発言をみよ。「この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである」(『増補新版 利己的な遺伝子』311、506ページ)。比喩表現をたくみに あやつるドーキンスの「利己的遺伝子」論は いかにも決定論的に みえたりもする。だが、ドーキンスもまた、「人間とは本能がこわれた動物である」という社会学的な人間観を肯定しているのである。
田中克彦は、『ことばと国家』(1981年、岩波新書)において、つぎのように のべている。
あることばが独立の言語であるのか、それともある言語に従属し、その下位単位をなす方言であるのかという議論は、そのことばの話し手の置かれた政治状況と願望とによって決定されるのであって、決して動植物の分類のように自然科学的客観主義によって一義的に決められるわけではない(9ページ)。近代的な分類学をたちあげたリンネの手法が、それほどに客観的ではなかったことを、われわれは かんたんに確認することができる(「リンネの分類学へ」)。
自然科学に敵対的な態度をとるひとのなかには、なぜか、どこかで自然科学に幻想をいだいていることがある。「決定的で、真理であり、うごかせない」。だから、こわいと。信仰のうらがえしで反感をもつだなんて、「ツンデレ」じゃあるまいし!
自然にたいしても、「決定的で、うごかせない」ようなイメージをいだいていることがある。だが、それは まちがいである。自然は自由にあやつることができるし、いくらでも介入することができる。人間の歯が雑食できるように できているからといって、人間は雑食でなければならない必然性などない。人間には自由があるのだ。
自然観のあやまりは、社会観のあやまりを意味するのである。
さとりをひらけないでいては、すべてが敵にみえてしまう。なにか ひとつでいいから、さとってしまうべきだ。
と、最後の最後で いいかげんな結論をかいてみる。「ツンデレ」発言については、反省しています。
付記:ちょっと手をいれた(3月23日)。