どーも いけない。たべるってことを、あまりに あたりまえの よーに かんがえて、ありがたみや、くるしみをみすごしてしまう。すくいそこなってしまう。
料理屋で はたらいてると、すべての料理が整備されたシステムのなかで調理されてるのを感じる。パスタのソースも つくりおきしてあって、家で料理するのと 店で料理するのは 全然ちがう(わたしはパスタの担当じゃないけども)。完璧に ととのえられた環境、システムのなかに いるからこそ、なにかが おかしいと感じてしまう。効率の よさだけが追究されて、土や血が感じられない素材。ニワトリの手羽をきって、やいていても、ちょこちょこ はしりまわるニワトリの すがたが 目に うかんでこない。
テレビでレンコンをほっていた。どろの田んぼに あるのよね、レンコンって。でも あらってあったら、そんなの わかりゃしない。わかるはずが ない。
「たべるだけの人」になるのは いやだ。「そだてる」の段階から たべものに つきあっていたい。歯車のなかで まずしく そだったものをたべたくは ないから。
ニワトリの首の両脇に 包丁で きりこみをいれて、さかさにして血をだす。しばらくして、あつい湯にニワトリをつけて、羽根をむしる。それから、内臓をとりだす。ずっと夢だったことを、21才のとき体験できた。内臓は あったかかった。血をだして、しばらくして つめたくなったニワトリをさわった。ちょっと わらった。いきてるって、こういうことかと。つめたくなるって、こういうことかと。すこしも こわいことじゃない。むしろ たのしい。でも、ウシになったら どうかな。あれだけ おおきい動物を。この動物なら ころせる、この動物は ころせないかも。そんな基準で えらんでも いんじゃないかな。たべる肉と たべない肉を。
だれもが自給自足できるわけじゃない。だから、みんなで役割分担。でも、その役割分担が あまりにも固定的になってしまうと、ただの歯車になってしまう。たべものさえも。血や土をもっと みたい。もっと さわっていたい。
「社会の歯車」 / 「自給自足」 / 「役割分担」 / 「命の授業」
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