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「心理学化する社会」のなかで

前から ほしかった◆ウルズラ・ヌーバー『〈傷つきやすい子ども〉という神話-トラウマを超えて』が文庫になっていた(岩波現代文庫)。

よしよし、これでトラウマ関係の本は だいたい そろった。うえの本と おそろいでオススメなのは◆ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』(文春文庫)。これは よみやすいし、勉強になる。

あと、いまさらながらに発見したのが◆實川幹朗(じつかわ・みきろう)『思想史のなかの臨床心理学-心を囲い込む近代』講談社選書メチエ)。この本は、心理学が近代の産物であることを指摘し、「現代社会の心の病」をうみだす構造と おなじ構造のなかで臨床心理学の実践と理論が成立しているのではないか?という問題設定をたてている。同時に、臨床心理学を「宗教的なもの」として とらえて論じている。おもしろそうな本だ。メチエは、いい本だしてるなぁ。

心理学化する社会」というコピーは、◆樫村愛子(かしむら・あいこ)『「心理学化する社会」の臨床社会学』によるもの。まだ入手してませんが。かわりに◆斉藤環(さいとう・たまき)『心理学化する社会-なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』をかるく よんだ。まぁ、おもしろい。自分自身も批判の対象にならざるをえないことを自覚しつつ かいているのは いいのだけど、「事件報道にかつぎ出される精神科医」の章で、メディア対策として「僕は『精神分析』という、たいへんうさんくさい立場からコメントする。精神分析家ですらない僕が精神分析的に語ることで、『真実の語り手』という立場を、常に免れることができるはずだ」というのは理解できなかった。世間一般において、精神分析というのは「たいへんうさんくさい」のだろうか。まだ そんなことはないと感じられる。自分も「真実の語り手」と みなされるだけの権威をもっていること、もたされていることを自覚したほうが いいのでは ないか。

最近でた本で すばらしいのは◆宮地尚子(みやち・なおこ)『トラウマの医療人類学』みすず書房)。「大学で平和社会論を教えるいっぽう、精神科医として医療人類学・文化精神医学にかかわり、性暴力についてのカウンセリングや難民医療にも力を注いできた」という著者の活動内容と問題意識が、非常に力づよい本にしている。すこし引用しよう。
共感の政治学。誰が誰に共感をもって、痛みを感じ取るのか。誰が誰と自分を同一視して、敵味方の構図を作り上げるのか、痛みを感じ取ることはどう憎悪と復讐に結びつけられるのか。報復を声高く叫ぶ者ははたしてトラウマの当事者なのか。本来言葉には簡単にならないはずのトラウマが饒舌に語られるときこそ、私たちはその言説の空間配置に注意深く目を向ける必要がある。(14ページ)
これは、すごくすきな文体だ。ただ、「トラウマは本来言葉にならない」(9ページ)という、著者の宮地さんにとってはもっとも重要な点が、すこし ひっかかってしまう。「言葉にならない」というのは、トラウマという概念の恣意的なところが よく あらわれていると感じる。恣意的であるがゆえに、「ことばにしえたケース」が不当に評価されてしまう余地も のこしているのでは ないか。とはいえ、トラウマという概念をつかって現代の社会問題を論じようとしたアプローチそのものを否定するつもりはない。宮地さんが指摘しているように、「もっとも大事なことは、『人が傷つくのは同じ』というきわめて単純なこと」(7ページ)であり、トラウマ概念そのものでは ないからである。

グーグル:「心理学ブーム」 / 「心の時代」