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「こどもあつかい」について

「こどもあつかいするな」。

こどもあつかいは、わるいことだとされています。たとえば、おとなの身体障害者にたいして、こどもあつかい。20代後半のひとにたいして、50すぎのひとが こどもあつかい。「ちゃん」で よんでみたり。

けれども、こどもと おとなの平等という観点にたってみると、なぜに「こどもあつかい」が よくないことだと いわれるのか、すこし不可解になってきます。なんなんでしょうか。

おとなは こどもではない、ちがう、ことなっている。なのに、とりちがえている。だから、いけない。イヌをネコと よんではいけない。そういうことでは ないように感じるのです。

おとなと こどものあいだに、はっきりと、序列といいますか、上下関係が成立している。それは こどもが つくったものではない。「こどもあつかいするな!」という、おとなの側が つくりだした序列だ。

でだな、「こどもあつかいされている」と どのように感じるのかといえば、あきらかに相手が自分をしたに みている、かるくあつかっているという印象が つたわってくるからだろう。もちろん、相手の本心は わからないものでは あるけれども、「こどもあつかい」された(と感じた)経験というのは、おおくのひとが もっているだろう。

「もっと おとな」(だと自分で おもっているひと)が だれか(便宜として、ここでは「ちょっと おとな」としておく)にたいして、えらぶり、かるく あつかう。それが いやだと感じる。そこで、こどもあつかいするなと きりかえす。あるいは、頭のなかで反発する。

けれども、それでは「おとなより程度のひくい存在」、つまりは「こども」の存在をどちらの側も みとめてしまうことになる。「こども」なるカテゴリーは、社会的な人間関係のなかで「つくられたもの」である。「こどもなんて いない」といえば、いない。ただ、ひとだけが いるのだから。合理的に定義し、線をひくことは できないのだから。

だれかをこどもあつかいする「もっと おとな」。そのひとに こどもあつかいされた「ちょっと おとな」。その両者が かろんじている「こども」。こどものなかにも、序列や程度の上下が成立している。連鎖といいますか。

この序列の まんなかにいるひとは、どのように きりかえしたら いいのでしょうか。「ばかにするな」? それも ちがうでしょう。「えらそうに いうな」?

えらそう…。えらそうというのは、全然えらくないのに「えらいふりをする」、「えらいと かんちがいしている」ということでしょうか。それなら、どこかに「ほんとうに えらいひと」がいるのでしょうか。そして、そのひとには「えらそうに」いわれても、仕方のないこと、ゆるせることなのでしょうか。

上下を「たいらにする」ためには、どうすれば いいのでしょうか。

まず、認識において。「ひとに上下はない。役割がちがうだけだ。」 このように かんがえるのは どうでしょうか。一社員と社長の関係は、上下関係などではなく、役割のちがいにすぎないのだ、と かんがえるわけです。どちらの役割もなければ、おそらく その会社は成立しないのですから、どちらが えらいということは できないはずです(もちろん、社長がほんとうに必要なのか、給料の大小は合理的に決定されているのかは、重要な問題です)。ちがうのは、役職にすぎません。もちろん、責任のおもさは ちがうかもしれません。ですが、そのへんも ひっくるめて、役割が ちがうということであり、また、それだけのことなのです。おとなと こどもも おなじことです。役割が ちがうだけです。もちろん、おとなと こどもというカテゴリーと分類が、それぞれ必要なものであるとすれば、ですけれども。

つぎに、きりかえしかた。こどもあつかいするな! の かわりになる きりかえし。「(この世に だれかより えらいだれかなんて どこにもいないのに)ずいぶん ご立派なんですね」、「(役割が ちがっても、ひとは みんな平等なのに)さすがだなあ」というのは どうでしょうか。カッコの部分は くちには ださず、そのようなニュアンスをほのめかす、ということです。ほのめかすというのは、コミュニケーションにおいて なかなか むずかしい部類の技術でありますから、だれにでも できることではありません。ですが、できるひとは やってみましょう。

「ずいぶんと ご立派なんですね」というのは、いかにも皮肉で、印象が わるいかも しれません。まあ、それも よしとするのも よし。あるいは、相手につたわらないように、こちらの頭のなかだけで相手を「えらそうに あつかう」のも いいでしょう。さすがだなあというのは、相手には ほめことばに きこえるかもしれませんが、こちらとしては、「平等原則に反するひとは、やっぱり いうことが ちがうなあ、さすがだなあ」ということです。えらそうにするひとには、きちんと えらそうに あつかう。けれども、それは平等原則に違反しているということなので、きちんと処罰する。処罰というのは、なんだか きびしく きこえますが、やることは単純。まともに相手にしない、ということです。はいを一回だけ いいながら、頭のなかでは「はい、はい」とも いわず、ひたすら無視してしまう。それで いいのではないでしょうか。

まあ、いやな いいかたをされて、むかついた。というのが実態なわけですから、むかついたところを「無視する」、というのは なかなか できないことですけどね。結局、感情のコントロールの問題になっちゃうから、対処のしようは、いくらでも あるにせよ、これ!というのはない。

と、まとまらずに おわる。