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「元旦」と「嫉妬」―語源の規範と漢字

正月に、何度か「元旦」と「元日」のちがいについての解説をみききした。あほらし。

「元旦の旦の字というのは山や水平線に太陽がのぼったさまをあらわしています。ですから、元旦というのは元日の朝ということになります。なので、元旦の朝などと いわないようにしましょう。」はいはい。

さっそくパロディ。

「嫉妬という字をご覧ください。「しつ」も「と」も女へんですね。これは、つまり嫉妬というのは女がするものだということです。なので「男の嫉妬」というのは言語矛盾になります。嫉妬は女がするもの、もとい、女は嫉妬するものなのです。」

努力の「ど」は「女の又に力」と かくとかいう解釈も やめてほしい。

『漢字の過去と未来』岩波新書という名著のある藤堂明保(とうどう・あきやす)さんに『女へんの文字』という本がある(1967年、山王書房)。くだらない部分を引用しよう。
[女・若・弱という字のオトと意味の共通性を指摘して]こう並べてみると、おんなを女(ニョ)と称するのは、それがまことにしなやかな柔らかい肢体を持つからである――ということがわかる。柔らかいというのは、つまり曲線の美しさである。どんなにいかつい女性でも、身のこなしのどこかで、柔らかさを感じさせなければならない。また中年を過ぎて、いささかからだの節ぶしが固くなりかけ、老化現象を起こしている女性は、せいぜい柔軟体操でもして、柔らかさを保たなければなるまい。「柔らかさ」こそは女(ニョ)というコトバの本質なのであり、男たちの魂をゆさぶる根源なのであるから。(16ページ)
なんという名文でしょうか。「どんなにいかつい女性でも」「柔らかさを感じさせなければならない」「せいぜい柔軟体操でもして」「男たちの魂をゆさぶる根源」…。それほど ながくはない文章に、ばかなオヤジっぷりがみごとに発揮されています。

最後のページをひらいてみました。さすが、いいことが かいてあります。
語源の論議というと、えてして「民間語源俗解」(フォルクス エティモロジー)に流れやすいものである。およそこのような問題を扱うには、確固とした方法論がなくてはならない。「音韻論」と「文字学」とは、車の両輪として、いつも並行しつつ立論の基礎を固めていなければならないのだ。私のこの書に影響されて、あまりに突飛な俗解や珍説がとび出さぬよう、あらかじめお願いしておきたいと思う。(219ページ)
はい。藤堂さんの漢字研究の方法論は いいですよ。文句ないです。ですが、ことばの本質なるものが たとえあるとしても、だからといってその本質にそれぞれの人生をあゆむ人間が したがわなければならないのだという意味不明な ゴタクセンは かんべんしてください。そのへんのオッサンが口をひらけば、えてしてセクハラ発言の連発になりやすいものである。女性についてのはなしをするときには、「ジェンダー」と「権力関係」への視点をかかかすことはできないのだ。あなたのこの書は、ジェンダーについてはすでに俗的解釈=男のために女が存在するかのような くだらない発想が よこたわっていますよと、いまさらながら ことわっておきたい。

グーグル:「語源主義」