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言語能力と刑罰―言語という障害。

 2009年に「言語という障害―知的障害者を排除するもの」という論文を かいた。もくじは つぎのとおり。

はじめに
1. 言語権という理念
1.1. ひとつの言語とはなにか
1.2. 言語権のひろがり
2. 知的障害と「言語」
3. 言語学の倫理―ジーニーを実験台にさせたもの
4. 共生の条件とされる「ことば」
5. 知的障害者をとりまく社会環境―言語という障害と能力主義
5.1. 言語と世界観
5.2. 知的障害の判定テストと言語
5.3. 能力の個人モデルから「能力の共同性」へ
6. 言語主義からの自由、そして言語権のユニバーサルデザインにむけて
おわりに
参考文献

 こうした問題に関連して、最近 気になっていることがある。それは「言語能力」によって刑罰の軽重が左右されてしまうということだ。
 浜井浩一(はまい・こういち)は『2円で刑務所、5億で執行猶予』光文社新書で、つぎのように のべている。

 ある意味、刑事司法手続は、98%の人が不起訴や罰金刑で勝ち抜けるゲームであり、受刑者は、その中で2%弱の負け組なのである。ただし、ここで重要なことは、負け組になる理由は、犯罪の重大性や悪質性とは限らないことである。

(116ページ)


 浜井は、「負け組と勝ち組を分けるもの」をつぎのように説明している。

 勝ち組になる条件は、初犯であれば、端的に言って財力(被害弁償等)、人脈(身元引受人等)、知的能力(内省力・表現力)である。…中略…教育水準の高い者は、コミュニケーション能力も高く、取り調べや裁判の過程で、警察官や検察官、裁判官の心証をよくするために、場に応じた適切な謝罪や自己弁護等の受け答えができる。

(117ページ)


 受刑者は、どうか。

…受刑者の中には、教育水準やIQが低く、不遇な環境に育ち、人から親切にされた経験に乏しいため、すぐにふてくされるなどコミュニケーション能力に乏しい者が多い。当然、刑事司法プロセスの中では、示談や被害弁償もままならず、不適切な言動を繰り返し、検察官や裁判官の心証を悪くしがちである。その結果、判決では、まったく反省していないと見なされ、再犯の可能性も高いとして実刑を受けやすい。

(118ページ)


 その結果として、「IQで見ると受刑者の約4分の1程度が知的障害を示す70未満のレベルにあり、精神障害を有する受刑者も増加傾向にある」という状況をうみだしている(125ページ)。


 こうした刑務所の状況については、最近になって注目があつまっている。山本譲司(やまもと・じょうじ)の『累犯障害者』、浜井の『刑務所の風景』、日本弁護士連合会刑事拘禁制度改革実現本部編『刑務所のいま』などに くわしい。
 わたしも「情報保障の論点整理─「いのちをまもる」という視点から」という論文で刑務所の問題について すこし論じた。


 今回とりあげたいのは、仮釈放の条件として言語能力(コミュニケーション能力)が障害になっているという点についてだ。
 日本犯罪社会学会編『犯罪からの社会復帰とソーシャル・インクルージョン』を みてみよう。山本譲司(やまもと・じょうじ)による第1章「刑事司法と社会福祉―出所者支援活動の実践から」から引用する。

 身元引受け先のない受刑者には、仮釈放が許されることはない。これが更生保護行政における厳格なルールです。それに、仮釈放が許可されるうえでの重要なバロメーターとしまして、「身元引き受け先の有無」とともに、「受刑者本人の反省の度合い」があります。
 通常で言いますと、有期刑の受刑者は、刑期の3分の1を経過した時点で、保護観察官との1対1の面接が行われます。その場で反省の弁を口にすれば、大抵の保護観察官は言葉通りに受け取ってくれて、「改悛の情あり」と仮釈放の可否を判断する更生保護委員会に報告してくれるようです。そこで面接前になると、受刑者は必ず、担当刑務官から、「演技でもいいから反省の態度をとるように」というアドバイスを受けることになります。ところが、知的障害のある受刑者たちは、その声にも全く関心を示しません。馬耳東風といった感じでした。反省の態度を表すことができない人たちが多いんですね。たぶん彼らは、取調べや裁判の場でも、言葉を発することなんて、全くなかったんじゃないでしょうか。でも、我が国[日本のこと―引用者注]の刑事司法や行政施設には、彼らの障害を積極的に理解しようという姿勢はほとんど見られません。

(41-42ページ)


 社会に居場所がなく、反省をかたることができない ひとは、仮釈放の機会に めぐまれず、満期出所となる。そして、すくなくない出所者が無銭飲食や万引きなどで刑務所にもどる。これが日本社会の現実だ。


 浜井浩一は『2円で刑務所、5億で執行猶予』で「刑務所にはたしかに自由がない。では、介護福祉施設に入っている身寄りのない高齢者にどれだけの自由があるのだろうか?」と のべている(215ページ)。そして、「真に彼らの社会復帰を考えるのであれば、福祉施設に収容したり、生活保護を支給したりするだけでは不十分なのかもしれない」という(216ページ)。


 これは、日本の刑事政策だけでなく、社会福祉そのものを 改善していく必要があるということだ。


 最近、まちを あるいていると「やり直せる社会に、賛成です」というポスターをみかける。これは法務省「“社会を明るくする運動”―犯罪や非行を防止し、立ち直りを支える地域のチカラ」として推進しているものだ。
 法務省には、こうして社会にむけてアピールするだけでなく、日本の刑事司法のありかたを 根本的に改善してほしい。


 言語能力によって、実刑になったり、仮釈放されなかったりする。そのようなシステムは あきらかにおかしい。


 コミュニケーションは、「ひとと ひとの あいだにあるもの」だ。表現をかえれば、「コミュニケーションは おたがいさま」なのだ。これは、検察官や裁判官の「コミュニケーション能力」の問題でもある。
 社会における「言語」や「コミュニケーション」の位置づけの問題でもある。
 個人の能力の問題ではなく、社会の問題であるということ。社会保障の問題であるということ。それを 自覚し、宣言し、実践する。そのさきに、どのような社会が ひろがっているだろうか。
 いまの現実は、おぞましいものだ。ここから、どのような社会を めざすのか。


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