hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

差別されるということ(登校拒否について)。

 常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)さんの4年以上まえの記事ですが、最近 よみかえしてみました。疑問に おもったことを かきます。つぎの部分です。


登校拒否と名付けることやカテゴリーに括ってしまうことは「暴力」である。しかし逆に、その暴力があってはじめて、登校拒否を社会問題として提起することが可能になる。となると私たちは、登校拒否という「名前」を単純に否定することもできなければ、肯定することもできないジレンマに直面していることになります。

 どうにも、おかしなはなしです。この発想は「なぐられることによって、「なぐるな」!と反発することができる」というようなものです。


 たいせつなこと、おぼえておくべきこと。それは、


「差別されるということは、抑圧されると同時に 名前を つけられるということだ」
ということです。だから、名前を かえたり、なくすだけでは不十分です。抑圧的な社会制度や個々人の態度が なくなってこそ、差別が解消されたと いえるのです。そして、差別が解消されるまでは「抑圧の証拠」である名前は のこりつづけるでしょう。個人が拒否しようと、なんだろうと。


さて。結論は かいてしまったので、あとは気楽に かきます。

 つねのさんは、つぎのように かいています。


アメリカのフェミニストであるジュディス・バトラーさんは、西洋近代における普遍性を問い直しています。彼女によれば、タテマエとしての普遍性は、「全ての人」を含んだ概念です。しかし、実態としては、黒人、女性、ゲイ・レズビアンといったマイノリティーはその領域から排除されてきました。


では、支配に抵抗する側は、「普遍性」なるものを拒否すべきなのでしょうか。必ずしもそうではないとバトラーさんは言います。「普遍性は、ヘゲモニーをめぐる無制限の闘争に属する」からです。普遍性とは、あらかじめ固定されたものではなく、常にそれに関わる人々によって構築されつつあるものなのです。

 すばらしい。この世にあるものは すべて、「つくられつつあるもの」なのです。つぎに引用するところも、すばらしい。


Mallkuさんやふやふやさんが不登校もまた普通だと言うときの「普通」は、支配的文化における従来の「普通」概念とは、明らかにズレがあります。従来の「普通」とは、たとえば、「健康で、結婚していて、勤勉で」みたいな感じでしょう。それに対して、Mallkuさんは言います。


…「暴力、病気、ひきこもりなど」も普通のうちということ。だって、トーコーキョヒと関係なく、そこらじゅうで普通に起こっている現象だよ。

これは、従来の「普通」概念を覆(くつがえ)すものです。元登校拒否児が「登校拒否は普通のことだ」というとき、「普通」のヘゲモニーをめぐる政治闘争が始まると言えるでしょう。

 いいですね。これは。


 さて、せっかくですから もうすこし「差別されるということは、抑圧されると同時に 名前を つけられるということだ」ということについて。


 問題設定を ひっくりかえす。それを「パラダイム転換」ということがあります。目標は、抑圧的な社会のありかたを かえることです。パラダイムの転換は、そのための土台になります。


 さて、冒頭で引用した文章を もういちど みてみましょう。


登校拒否と名付けることやカテゴリーに括ってしまうことは「暴力」である。しかし逆に、その暴力があってはじめて、登校拒否を社会問題として提起することが可能になる。となると私たちは、登校拒否という「名前」を単純に否定することもできなければ、肯定することもできないジレンマに直面していることになります。

 「登校拒否」は、学校制度が うみだしたものです。「登校拒否」と名前をつけ、否定的に あつかうのは、学校制度を うたがおうともせず、それを推進するひとたちです。だから、「登校拒否」という名前は、「肯定」も「否定」もしなくていいのです。それは、「肯定するか否定するか」というジレンマの問題ではありません。差別されるということは、抑圧されると同時に 名前を つけられるということです。目標は、差別を なくすことです。


 いまでは「登校拒否」のほかに、「不登校」という「中立的な」表現があります。ただ、これだと「学校に いくのを 強制する 学校制度」というものが みえにくくなってしまいます。だからこそ、id:toledさんはブログの名前を「登校拒否への道(とうこうきょひへの みち)」にしているのでしょう。


 この社会には、学校主義といえるような制度化されたシステムがあります。そのわくから にげることはできない。なぜなら、学校制度は はじめから不登校/登校拒否を つつみこんでいるからです。想定の範囲内というわけです。この社会で、不登校/登校拒否者と そうでないひとたちが、いっしょに すんでいるからです。そして、学歴差別によって序列化されているからです。こういった問題は、つねのさんのブログの過去記事を よみかえすと、いくらでも かいてあります。


 学校とは、なんなのか。学校のありかたは、その社会を 観察するうえで、とても参考になるのではないかと おもいます。だから、世界の学校を しらべてみることは、とても だいじな作業だろうと おもっています。「学校の誕生の社会史」みたいな研究も、必要でしょう。もっとも、学歴差別にたいする問題意識が第一に必要です。「学校の社会史」で博士論文を かいて大学に就職して、めでたしめでたしでは しゃれになりません。学校制度を といなおすためにこそ、そういった作業が必要だと いいたいのです。いまのところ、「学校文化」というのが ひとつのキーワードとしてあります。


 ………。ものすごく だらだら かいていますね。こまったな。


 ここで、冒頭で引用した文章を、またまた もういちど みてみましょう。


登校拒否と名付けることやカテゴリーに括ってしまうことは「暴力」である。しかし逆に、その暴力があってはじめて、登校拒否を社会問題として提起することが可能になる。となると私たちは、登校拒否という「名前」を単純に否定することもできなければ、肯定することもできないジレンマに直面していることになります。

 わたしは「学校は いらない」とまで主張できないタイプの人間ですが、ともかく学校制度が なくなれば、登校拒否という名前はなくなります。それも解決のひとつでしょう。


 それ以外の方法はあるのでしょうか。たぶん、あるでしょう。学歴差別を なくすこと、知識や能力によって差別する制度を なくすこと。個々人に知識や能力を 要求するのではなく、みんなで たすけあう社会を つくりあげること。


 結局のところ、問題は学校だけでは すまないのです。学校に なにか 問題があるのなら、それは社会全体に問題があるということです。たとえば、障害児教育に問題があるなら、それは教育全体に問題があるのです。全体とは無関係に どこか「一部」に問題があるのではないのです。だからこそ、社会のありかたの全体像を とらえ、さまざまな社会問題を あぶりだし、ひとつひとつ問題提起し、社会を つくりかえていくしかないのです。


 そのためのアプローチとして、「あれやこれや」に とりくむというのもあれば、「ひとつ」に こだわることで「全体に せまる」というのもあるでしょう。どっちみち、順番が前後するだけです。社会問題は、いもづる式です。つながっていますから。



 わたしは知的障害者の施設で「生活支援員」を しています。この仕事を はじめて、2年半になりました。わたしの職場では、以前は「生活指導員」と いっていたそうです。それを 反省して、「生活支援員」という名前に かえた。これも、パラダイムの転換です。けれども、「教育的」なものへの嫌悪感が たりない職員は、かんたんに「指導員」になってしまいます。
 教育ではなく、学習支援を。わたしは、対等な関係を のぞみます。ですから、わたしは「教育」や「指導」を 拒否します。わたしが やっても いいだろうことは、「学習支援」までです。


 教育ではなく、学習支援を。


 ああ。学習支援という表現が、現実を ごまかす「便利な ことば」になりませんように。いえ、「学習支援という表現を、現実を ごまかす「便利な ことば」にしてしまいませんように」。ああ。ああ。ああ。ああ。ああ。ああ。ああ。