hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

ふたつの「ろう者」。

 じつを いいますと、わたしの修士論文「ろう者の言語的権利をめぐる社会言語学的研究」というものでした。朝鮮語が よめるかたは PDFファイルで 公開していますので、ごらんください。


 きょうは ふるい本を とりあげます。

  • 草島時介(くさじま・ときすけ)1983『ことばは生きている』秀英出版

 この本では196ページから218ページまで「障害者のことば」と題して4つのエッセイが収録されています。ここで とりあげるのは、「障害者のことば(3) -聴障者のはなしことばとその教育」です。はじめの部分を みてみましょう。


 かつては、耳の不自由な人、全く聞こえない人は、聾唖(ろうあ)学校に入ったものである。耳が聞こえないといっても、その程度はいろいろである。全く聞こえない人、不自由な人、ほとんど聞こえない人というように、さまざまな障害がある。しかも、耳の聞こえない人、悪い人は、いちがいに話せない(唖(おし))ときめこみ、学校は、聾唖学校として、ここへ入れたものである。だが、よく考えてみると、耳の悪い人でも、残聴を利用して、普通のことばを話すように指導すれば、けっこう話すようになれること、さらには全く聞こえない全聾者でも、指導よろしきを得れば、なんとか話せるようになることがわかり、今では聾唖学校とは言わなくなり、単に聾学校と呼ぶようになってきた。
(210ページ)


 いまでは、「ろうあ者」ではなく、ろう者(聾者)という表現が一般的です。これには、ふたつの背景がありそうです。ひとつには、うえの文章にあるような、ろう者は「もはや唖(おし)ではない」という視点です。つまり、きちんと教育すれば、ことばが はなせるようになるという視点です。
 そして もうひとつの視点は、手話も ことばであるという視点です。手話も ことばであるから、ろう者を「唖(おし)」というのは音声言語だけを 重要視する かたよった視点だということです。

 うえの記事で解説しましたとおり、手話と音声言語では言語形態だけでなく、言語体系が ちがいます。


手話と音声言語では、まず言語形態が ちがいます。音声をつかう形態と視覚による形態という ちがいがあるわけです。そして、日本手話と日本語は、言語形態だけでなく、言語体系も ちがうのです。

はっきりといえば、日本手話と日本語は、別の言語なのです。もちろん、ろう者は日本語話者が多数派をしめる社会で生活しているため、日本手話には日本語からの外来語が ふくまれています。けれども、いくら外来語をとりいれようとも、言語体系は ちがうのです。


 手話について興味を もたれたなら、わたしがアマゾンで つくった「手話の世界」というリストを ごらんください。いろいろな本が でています。



 さて、ろう教育についてなのですが、草島さんは つぎのように論じています。


読話法、口話法は、人が実際に話すことばを、口元や顔を見せて読みとらせ、そのことばで、自分にも言わせる方法だが、これこそ最も大切な方法なのである。人が周囲の社会で、自他共に認めあい、話しあいしている現実のことばこそ、最も大切なものである。
(213ページ)


 草島さんは、最後のことばを つぎのように しめくくっています。


 もともと読話、口話法では、聴障者が属しているわが国の、日本語の読話法、口話法を教わるのである。これができるようになるからこそ、日本の社会のことばを話して共通の感情をもち、共通の目標をめざして苦楽を共にし、知識を得られるように努めるのである。聾教育の重要な目的が、社会に適応する人間の育成にあるとすれば、その重大なものの一つは、聴障者が日本語ということばを理解し、話すことができるようになることにあるのである。
(214-215ページ)


 はたして、どうでしょうか。あなたは、どのように感じましたか? どのように うけとめますか?


 まずひとつ いえることは、草島さんは、手話について誤解をしていたということです。草島さんは、つぎのように のべています。


人が物を考えるとき、身振りや指ことばや、サインことばなどでは、うまくゆくものではない。
(212ページ)


 「サインことば」とは、手話のことです。英語では手話を「サイン ランゲージ(sign language)」といいます。うえのような視点は、たとえばポール・ショシャールの『言語と思考』文庫クセジュにおいても確認できます。ショシャールは、「耳や口の不自由な人は、言語を習得するに従って正常人になれるのだ」とまで いっています(91ページ)。


 わたしは「「ありがたい」ということ」という記事で、つぎのように かきました。


 これまで 多数派(聴者)は、みみの きこえない ろう者に、くちびるを よむことを おしつけ、そして、自分には きこえない声によって はなすことを、おしつけてきました。きいたこともない、そして、きこえない言語を まなばされるという経験を、だれが もちたいと おもうでしょうか。ですが、現実に ろう学校は、読話(どくわ)と口話(こうわ)を おしえる 空間として 位置づけられてきたのです。やっとの おもいで成立したのが、東京の 明晴学園です。「明晴学園は日本で唯一のバイリンガル・バイカルチュラルろう教育を行う私立学校です」。


 ろう者が 手話で 教科を まなび、そして、音声言語の かきことばを 学習すること。たったこれだけのことが、これまで みとめられてこなかったのです。そして、いまなお、口話主義の現実は つづいているのです。

 障害児教育が特別支援教育に再編されたことにより、「ろう学校」という名前を「聴覚支援学校」や「聴覚特別支援学校」に かえる うごきが でてきています。ろう学校の卒業生たちは、これに抗議しました。


 ろう者は みるのが得意だ。だから、視覚的に支援する。このような視点にたつなら、聴覚支援ではなく視覚支援学校と よぶほうが よっぽど適切なのです。ただ、ここでの争点は、残存聴力ということにあります。だれもが「全ろう」ではないという主張です。ですが、きこえにくい状態にある ひと すべてが 一律的に 音声言語を はなすようになるべきだというのは、一面的な主張です。その一方で、手話で学習するという教育体制は、まだまだ確立されていないのです。明晴学園で、やっと手話による学習権が保障される空間ができたという状態にあります。


 わたしは しごとで自閉症者の ひとに接しています。毎日の業務で、声よりもジェスチャーを つかったほうが そのひとにとって都合が よいときは、ジェスチャーを つかいます。自閉者には、声かけが 苦手な ひとが いるからです。というよりも、自閉者は 基本的に 音声よりも ジェスチャーや文字など視覚によるアプローチが このましいというのは、支援の現場では、もはや常識になりつつあります。そういった臨機応変な対応が、なぜ ろう教育では できないのか。


 それは、わたしたちの社会が「少数派に なにを もとめているのか」ということにあると おもいます。いえ、多数派は、構造的な特権によって、「なにを もとめられずにいるのか」を しらずに、少数派に なにを もとめてしまっているのかということに あると おもいます。


 少数派だけが 多数派にあわせる 社会を つづけていくのか。そうではないのか。「「配慮の平等」という視点」に もとづき、ろう者の言語権を 保障するのか。どうなのか。わたしを ふくむ 多数派の意識が とわれているのではないでしょうか。