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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

あのー、韓国でも 2003年に『韓国語が なくなるとしたら』って本が。


 写真に うつっているのは 友人の やすえさんです。手に『韓国語が なくなるとしたら』という本を もっています。韓国に いくたびに、たくさん 本を かってくるそうです。うわさによると、やすえさんは 本屋の まわしもんだそうです。

っていう本を このまえ かわずに かえってきたことを ちょっぴり後悔しているそうです。

って本も あるそうです。英語事大主義を 批判する本ですってね。

 これは日本でも みれる映画ですね。ふたつ 言語問題を あつかってますよね。



それでは、やすえさんに インタビューです。


あべ:水村美苗(みずむら・みなえ)さんの『日本語が亡びるとき』という本が話題みたいですよ? ほら。 水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan


やすえ:ふーん。


あべ:興味ないですか。


やすえ:まだ よんでないし。けどね、糟谷啓介(かすや・けいすけ)さんの論文でも よんだほうが いろいろと 参考になると おもうけど?


あべ:たとえば。


やすえ:それは、『言語帝国主義とは何か』藤原書店に はいってる「言語ヘゲモニー―〈自発的同意〉を組織する権力」と「言語帝国主義論の射程」とか、『ことばの二〇世紀』ドメス出版の「言語認識と言語政策―自然主義自由主義の陥穽(かんせい)」が おすすめ。陥穽って、おとしあなって 意味です。


あべ:わたしが つくった「社会言語学 文献目録」でも かすやさんの論文が あがっています。「言語とヘゲモニー」と「言語共同体概念再考」。


やすえ:てゆーかさあ、日本語という概念自体を ほろぼす 必要が あるわけでしょう? 脱構築するっていうのかしら?


あべ:わたしが むかし ブログに かいたことを パロディーにして いえば、「「日本語」なんて どこに あるんですか。日本語こそ、想像上の幻想にすぎませんよ。家族的類似による「日本語」の ぼやけたイメージが あって、そのイメージに そっている ことばを 「日本語」だと 認識するのでしょう。だから、さきに「日本語という実体」を 想定してはいけないのです。」ということになるでしょうか(ジェンダーは行為だ、するものなんだ。 - hituziのブログ 無料体験コース)。


やすえ:てゆーかさ、ましこ・ひでのり『増補新版 イデオロギーとしての「日本」』とか 鈴木義里(すずき・よしさと)『つくられた日本語、言語という虚構』で きっちり整理されてるわけで、いまさら どうこう議論したって くりかえしになるだけよね。


あべ:ましこ・ひでのり編『ことば/権力/差別―言語権からみた情報弱者の解放』も おすすめですよ。平等という観点から ことばに せまるようなところが 迫力ありますよね。わたしの かいた「漢字という障害」も よんでほしいですっ!!


やすえ:あとねー。山本真弓(やまもと・まゆみ)さんたちの『言語的近代を超えて―〈多言語状況〉を生きるために』明石書店も わすれないでほしいな。


あべ:そろそろ あきてきたので、おちを つけてください。きょうは おちを おまかせできるので ちょっぴり 安心してたのです。


やすえ:ことばの問題ってね、いろいろと 興味ぶかく、そして 深刻な 問題も ふくんでいるわけです。それだけど、一般的には あんまり 注目されていないように感じる。だって、関係者には うえに あげた 日本語の本って、ぜんぶ 常識の範囲に はいるでしょ? 言語問題を 社会的、政治的に かんがえてみるのなら 糟谷啓介さんとか、よんでない ひと いないわけでさ。田中克彦(たなか・かつひこ)は 基本中の基本なわけで。マリナ・ヤグェーロの『間違いだらけの言語論―言語偏見カタログ』にしたって いい本だけど、よまれてないでしょねー。よまれてなくても、その内容が 一般的な 知識として 定着していれば 問題ないけど、そうでもないように 感じるわけ。ことばの 問題って、いろいろと たいせつな論点をふくんでいるってことを、たくさんの ひとに しっておいてもらいたいわ。そんなつもりで、きょうは サービスショットよ。えへっ。


あべ:ありがとうございやした。


おまけ:

  • 谷啓介「日本の「言語問題」」『現代思想』1994年 8月号、146-156ページ。


 なぜわたしたちはなんの疑いもなく「日本語」について語れるのだろうか。「日本語とはなにか」。この問いは、日本語の歴史や日本語の起源をさぐることによってこたえることはできない。なぜなら、すでにそこでは「日本語」という対象が自明化されているからだ。問題にしなければならないのは歴史や起源ではなく、わたしたちのもっている「日本語」というものの表象なのである。
(150ページより)


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