hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。

 わたしは、知的障害者の施設で しごとを しています。きのうは当直でした。2時間くらいは ねむりました。けれども、ずっとずっと かんがえごとを していました。決着が ついたのか。結論は でたのか。なにも わかりません。


 わたしは ゴフマンの『アサイラム』を まだ よんでいません。ゴフマンは、精神病院を フィールドワークしました。そして、「トータル・インスティテューション(全制的施設)」という用語を 提示しています。

 ここでは、うえの論文を 参照します。まず、『アサイラム』という本について。


社会学者ゴッフマンの先駆的研究である『アサイラム』は、1950年代の終わりにアメリカの大規模精神病院を一年間にわたって参与観察した調査結果をもとに、精神病院も含めた「全制的施設(トータル・インスティテューション)」のメカニズムを理論的に明らかにしたものである。
(291ページ)


 わたしは、つぎの記述を みると、あまりにも ほんとうのことで、ことばを うしないます。そのとおりだからです。おどろくほどに、おっしゃるとおりなのです。


 全制的施設の原理は、一般社会からの隔離と落差である。入所者(患者)は、施設に入ると同時にこれまでの生活との断絶を余儀なくされる。それどころか、入所する前までは市民として当然自分のものであったもの(私物、財、職業、趣味、人間関係、生活史、自己尊厳、日常生活や人生の自己決定権など)を体系的に剥奪され、その結果、自己のアイデンティティは「辱め」られ「貶め」られ「屈辱」を受けるという「無力化の過程」をたどるのである。施設のスタッフはこうして剥奪したものを、今度は「特権」として被収容者に与える権力を持つ存在になる。つまりそこで働いている力学は一般社会からの隔離を通した剥奪と、剥奪されたものを特権へと転化することである。ここから、限られた特権を独占するスタッフと、「無力化」された被収容者のあいだに、根源的な亀裂と上下関係が生み出される。
(292ページ)


 はっきり いってしまえば、「すべてを うばいとったあとで、ほどこす」のが 施設の職員であり、「すべてを うばいとられたあとで、ほどこされる」のが 施設の入所者だということです。


 これほど 明確で、はっきりしたことを、わたしは ごまかしてきました。あたえることには 意識的で、うばいとることには 無自覚だったということです。いえ、なにも自覚したことが なかったわけでは ありません。けれども、ごまかしてきたのです。


 わたしは、しごとのときは ほとんど いつも わらっています。わらっていたいからというよりも、わらっていられるのです。たのしいからです。おなじ時間を 共有しているだけで、たのしくなってくるのです。わたしは よく、「やめたら いけんよ」と いわれます。愛されていると いっても いいかも しれません。


 けれども、わたしは「限られた特権を独占」しているのです。それを、ふと おもいだしては、つらい気分にも なります。けれども、特権を あじわっている側は、じっさいのところ 気楽なものです。「特権を独占」しているということを、わすれていられるのですから。わすれまいと、意識しようと、独占しているのは かわらないのですから。


 むかしは、入所施設一辺倒の時代でした。いまでは、通所施設も あります。グループホームも すこしずつ 地域に ひろがりつつあります。通所にせよ、グループホームにせよ、たいせつなことは「施設的性格」を とりはらっていくことでしょう。そう しなければ、支援者は、いつまでも いごこちの わるさを どこかに かかえたまま、それでも現実を 直視しないで ごまかしていくことになります。でも、それでは、人間が すくわれないではないですか。



 理想は はてしないものです。だって、現実が あまりに ひどいものだからです。そして、「おまえが わるい」と、 だれかに 責任を おしつけることは、できないのです。


 わたしたちが、この社会の一員であるかぎり、どこにも 安全地帯は ないのです。


 「おまえが わるい」という ひとが いないと 同時に、 だれも「おまえのせいじゃない」だなんて、いってはくれないのです。どんなに それが うつくしい ことばであっても。その ひとことで、どれほど すくわれるとしても。


 責任ということ。それは、わたしは、いま いきているということ。この世界を、みんなで わけあっているということです。だれもが、かぎりある いまを いきています。はかなく、あやうい世界を ともに あゆんでいます。いのるように、それでも あせって からまわりしないように、すこしずつ、そして 革命的に かんがえていくしかないはずです。


 わたしは つぎの一節を よんで、ないてしまいました。それは、親の たちばから、あまりにも「ささやかな ねがい」が のべられているからです。


ひょこひょこと歩くゆっくんの後ろ姿を見つめながら、私が希求する「社会」のイメージとは、じつに単純なものだと思いあたる。わが子が仲間たちと幸福に暮らし続けることを確信しながら障害者の親が死んでいける、そんな社会である。
(菅原和孝(すがわら・かずよし)『感情の猿=人』弘文堂、331ページより)


 うばいとるのは、かなしいことです。わけあい、たすけあうのは、たのしいことです。たった それだけのことです。