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「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」(きっこのブログ)

きっこのブログ: ついウッカリのベジタリアン


 いい記事ですね。きっこさんは、「牛や豚や鶏のお肉を食べることをやめ」ているそう。そして、「魚介類はOK」としているそう。で、その基準は なにかと いえば、「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」っていう「俺様ルール」。すてきです。いろいろ かんがえて、「「牛や豚や鶏などのお肉をできるだけ食べないようにする人」ってことを全面に押し出して、細かいことは気にしないことにした」というのも、共感できます。


 それでは、「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」っていう「俺様ルール」について。これって、一部のあいだでは、よく いわれていることでも あります。けど、あんまり意識されていない。わたしは、「ベジタリアン宣言」していますので、ベジタリアンなわけですけれども、「かわいそう」という感情は あんまり ないんですね。


 こどものころ、ザリガニとか、カエルとか、ムシとか、ヘビとか、たくさん ころしました。ごめんなさいっていう くらいに。たのしかったんですね。そういうことを やっていて、かわいそうだから ニワトリたべませんとは、なかなか いえないものですよ。きはずかしいですわ。
 高校生のころ、ともだちが「自分では ころせない」って いうのを きいて、びっくりしたことが あります。わたしには、そういった感覚が理解できない。なぜなら、わたしは平気で ころせてしまうからです(「シチメンチョウ(七面鳥)は すごかった」)。ニワトリだろうと、ウシだろうと。どんな動物でもです。こういう、わたしのような人間は、ちょっと バランスを とる必要があって、なんらかの べつの基準で制限を おくのが理想だと おもうのです。だから、「大量に資源を消費してしまう肉食には、制限をおきたいベジタリアン」を やっています。


「わらって ころそう、ニワトリを!」という記事を かいたことも ありますけど、そんなに「ひどいこと」ですか。「わらって ニワトリを ころす」のは。ひどくも なんとも ないでしょう?


 わらって たべているのだから、わらって ころすのが当然です。深刻ぶって ころすのなら、深刻な顔で たべるのが当然でしょう。自分では ころせないなら、たべないのが あたりまえでは ありませんか?


 ひとの感情は しらないので、ひどいことを かいているのかもしれません。けど、かわいそうなんて感情は、うえつけられたものにすぎないでしょう? 平気で ころしてる地域のひとは、かわいそうだから肉を たべないなんて いわないわけですよ。スライスされた肉を スーパーで かっている地域の ひとだからこそ、かわいそうということになるわけです。屠場(とじょう)を 自分たちの生活から とおざけているから、「かわいそう」になるのです。
 そのへんは、「「かわいそう」のバランス」が必要です。


「わたしたち」は教育やメディアによって動物をころすのは「かわいそう」といった意識ができあがってしまっています。ですが、おさないころからトサツが身近であれば、そのようには感じないでしょう。世界に目をやれば、現実はそうです。ですが都市化がすすんだ日本では どうしてもトサツは「とおいところ」にある(屠場[とじょう]の立地も!)。そして「食肉産業従事者=被差別部落出身、だから両者を差別する」という図式が固定されたままになる。

「ベジタリアン宣言」で、

  • 草をむしるようには、動物をころせないというベジタリアン
  • 大量に資源を消費してしまう肉食には、制限をおきたいというベジタリアン

 どちらでも いいです。そういうベジタリアンに、なってみませんか?

と かいたのも、バランスを とるためです。
 わたしが、「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」というのは、まず「ベジタリアンという名前」を みんなに すべからく つけてしまって、「だれもが ベジタリアン」ということにしてしまったあとで、それぞれのひとに、ベジタリアンであるということ、ベジタリアンするということについて、かんがえてみてほしいからです。名前って、すごく だいじです。その名前を つけられたことによって、「その気になる」ということが よくあるわけです。そういった効果を ねらっているのです。


 さあ、その気になろうよ。あなたも ベジタリアンですよ! 「なんちゃって」で あろうと。「日曜だけ」であろうと。なにかを かんがえて「ベジタリアンする」とき、だれだって ベジタリアンなんです。


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