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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。

 多数派って、なあに。えーっと、社会のなかで 多数をしめる ひとたち? この社会に いっぱい いるひとたちのこと? 「ちょっと ずれたひとたち」以外ってこと? 自分が「ふつう」だと おもってしまえる ひとたちのこと?


 わたしが おもうに、多数派と少数派は、名前の あるなしで区別できる。少数派には名前がある。多数派には名前がない。これを ずばりと指摘したのが、アイデンティティの政治性を くわしく論じている 石川准(いしかわ・じゅん)さんだ。


 障害者は、障害者というアイデンティティとか立場を引き受けるにせよ拒絶するにせよ、つねに「障害者」として振る舞わなければなりません。障害者というアイデンティティや立場から自由になろうとしても、それもまた障害者としての一つの「政治的な意味を帯びた」選択とされてしまいます。対照的に、健常者は、健常者というアイデンティティはおろか、健常者という立場を自覚する必要さえないのです。どのような立場やアイデンティティでも自由に選べるノーバディ(nobody)なのです。
 本来、自己の立場を忘却できる立場にあることの特権性、暴力性を暴き、揺さぶり、そうした非対称性を壊していくのがアイデンティティの政治であるはずです。障害者に感情移入して共感したり、感動したり、激励したり、庇護(ひご)したり、憐憫(れんびん)したり、知ったかぶりをしたりする健常者に、そのような「余計なこと」をする前に、自己のあり方を相対化し反省することを迫るような言説を紡ぎだしていくことが障害学には求められていると思います。
石川准 2000 「平等派でもなく差異派でもなく」『障害学を語る』42ページ(asin:4887203047)。


 自分が どのような名前を もっているのかを しらないのが多数派です。どのような社会的な立場に いるのかを 意識していないのが多数派です。
 だって、そうでしょう。わたしは右ききで、異性愛者で、聴者で、晴眼者で、定型発達(神経学的な多数派)で、健常者で、和人(やまとんちゅ)…なのだと。そんなふうに自覚している多数派は、ほとんど いないのですよ。だれかと むきあって、やっと意識するか、おもいだす。それくらいのことです。それくらいのことで、すんでしまえるのです。すんでしまうのです。だって、「わたしは ふつう」だから。「ふつう」であると意識することすら 必要でないから。社会に埋没(まいぼつ)できるのです。


 たとえば、右手/左手の きき手を 意識する必要がないのは だれですか。右ききです。右ききは、社会の90パーセントほどを しめています。これは数字の問題ですね。ですが、ちょっと まってください。


 右ききは、社会の ほとんど あらゆるものを 右ききだけのための都合で設計しています。水道の じゃぐちを おもいだしてください。あれは、右ききに都合のよい設計になっています。それを自覚している右ききは、この社会で、どれほど いるのでしょうか? 知識として まなばないかぎり、わかるはずのないものです。
 はさみを おもいだしてください。あれも、社会で流通しているのは右きき用です。


 大路直哉(おおじ・なおや)さんは『見えざる左手-ものいわぬ社会制度への提言』(asin:4883201597)で、つぎのように指摘しています。

  • 「左利きはいまだ利き手を意識せずにはいられない」(19ページ)。
  • 「右利きは、〈右利き社会〉という社会的な磁場のおかげで、利き手そのものを意識することが少ない」(106ページ)。

 これを、「非対称的」というのです。こうした「非対称な関係」にあるのが多数派と少数派です。ただたんに、人数の割合の問題などではないのです。


マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ。
 これは当然のことです。あらためて指摘するほどの はなしではありません。けれども、この関係性を いつも わすれてしまえるのが多数派なのです。だって、わすれてしまえるように社会を つくりあげているのだから。


 サッカーのオフサイドトラップを おもいだしてください。あるいは、オフサイド(サッカー) - ウィキペディアを 参照してください。


ゴールキーパーを除く、一番後ろにいる選手よりゴールラインに近い位置にいる相手選手はオフサイドポジションになり、この選手にはパスを送る事が出来ない。これを守備に利用するため、一番後ろにいる選手が前に出てディフェンスラインを押し上げ、相手選手がオフサイドポジションにいる状況を作為的に作り出す戦術がオフサイド・トラップである。
 この「オフサイド トラップ」を しかけているのが多数派の日常ではないでしょうか。「気づいたら、名前を つけられていた」。それが少数派です。「気づいたら、わたしは うしろ指を さされていた」。それが少数派です。


 多数派は、だれかを とおざけ、自分とは ちがった存在として まつりあげます。あまりに日常的に やっていることなので、自分では自覚が ありません。それだけに、たちが わるい。


 それまで「ふつうに」生活してきたのに、ある日とつぜん、ものすごく奇妙な ひとだと、きもちわるがられる。そんな経験を したことは ありませんか? おかしな ひとだと、みんなに わらわれたことは ありませんか?


 それが「多数派のオフサイド トラップ」です。



 そのとき、あなたは名前を つけられたかもしれません。


(つづく)


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