hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

人間として、あたりまえのこと(アセクシュアルについて)。

「人間として あたりまえのこと」というのは、学部のとき 文化人類学のセンセが よく ゆーてた ことばです。だれかが おもしろい服装をしていても、「ひととして あたりまえのこと」だと さらりと かたり、なにが あっても動じないというか、あっけらかんとしているのでした。


ただ、差別的なこと、暴力的なことについては、ものすごく するどい批判精神を もっている ひとです。だから、そのセンセが すきなのです。やまぐち、いきたいなあ。


さて、はてなブックマーク - こぼれおちたのは、異性愛か。それとも同性愛か。 - hituziのブログじゃがーを みてください。

わたしの「こぼれおちたのは、異性愛か。それとも同性愛か。」という記事に、ものすごく重要なコメントを くださった かたが おふたり いらっしゃいます。


id:nagachika thought しかしここでもアセクシュアルは切り捨てられる……。
id:atawi 考察, 社会, ジェンダー 愛することが当たり前、と規定しちゃったらだめだろー
おふたりに感謝します。


こういった指摘をしてくださる ひとが いるということは、ほんとうに しあわせなことだと おもいます。


id:nagachikaさんには おもわず、「はてなブックマーク - hituzinosanpoのメモ帳なのだ / 2008年07月22日」で、「"しかしここでもアセクシュアルは切り捨てられる……" そのつもりはなく、今度かこうと おもっていたのです…。じゃんけんのユニバーサルデザイン わたしの問題意識は、これをよんでいただければ」と、いいわけめいたことを かいてしまいました。


すると、nagachikaさんは「(追記 id:hituzinosanpo さん、真意は了解しました。わたしが「からだでコミュニケーションをとるのがすき」が「あたりまえ」と誤読してしまっただけです。)」と、コメントを追加してくださいました。


「誤読」ではなくて、たしかに、わたしが うまく説明できていなかったのも事実だと おもいます。「ユニバーサル セックス」という記事を かくときに、アセクシュアルについても かいてみようかなと おもっていたのですが、それにしたって、なにか「切り捨て」ないような表現方法が とれたはずです。はい。


さて、アセクシュアルAセクシュアル)とは なんでしょうか。


わたしが尊敬しているひびの まことさんのサイトをみていると、ときにアセクシュアルという表現が でてきます(ばらいろのウェブログ(その2))。

たとえば、憲法24条はそれ自体が異性愛主義の条文です。 - ばらいろのウェブログを みてください。つぎのような説明が つけたされています。


(付記)性愛強制について
 せっかくなのでついでに書いておくと、この24条の条文は、今の日本の性についての文化とセットになって、性愛を自明視し、そのことで結果的に性愛を強制する条文でもあります。人はセックスや恋愛や結婚に関心を持って当然、という意識は、実に広範に存在します。セックスをしないこと/したいと思わないことがまるで病理であるかのように「セックスレス」という呼ばれ方をしている現実があります。
 私自身が性愛者であって、セックスが好きだということもあり、人から強く何回も批判を受けるまで、このことには気が付きませんでした。その辺の「鈍感さ」が久しぶりに身にしみた事例でした。
 しかも、この「セックスレス」という言葉を創ってまでの病理化を進めているのが、あの(!)阿部輝夫さんだということが悲しいです。トランスギョーカイでいくら実績があっても、阿部さんの文章はひどいです。
 以下、Aセクシュアルの立場から阿部さんを批判する質問状、そして性愛強制社会を指摘する論文を紹介しておきます。また、Aセクシュアルについて書いたとても読みやすいエッセイもリンクしておきます(というか、これが一番導入としては分かり易いかも)。
ひびのさんが紹介しているのが、つぎのウェブページです。

ほかにも、前田彩:非性愛的身体――Aセクシュアルと性の医療化言説という記事も すばらしいです。


検索してみたところ、つぎのウェブページも みつかりました。

うえのAセクシャル(アセクシャル・アセクシュアル)についてというサイトでは、つぎのように説明されています。


男性および女性のどちらをも性愛の対象としない人、 もしくは性欲(性的欲求)そのものがない人、およびその性的指向(asexuality)
異性愛主義を といなおすということは、性愛主義を といなおすことに つながっています。わたしたちが、異性愛に注目したとき、すでに つぎの窓が ひらかれているのですね。


そうやって、いろんな窓をひらき、たくさんの世界に接していくとき、さまざまなかたちで、「人間として、あたりまえのこと」のかたちを しるようになる。

なんて すてきなんでしょう。これまでの わたしは、なんて ちいさな世界を いきていたんでしょうか。これからさきの人生は、ものすごく たのしいものになりそうです。


わーーい。