hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

こぼれおちたのは、異性愛か。それとも同性愛か。

韓国に留学していたとき、感動してよんだ文章を紹介します。


ハン・チェユン 2003 「ある非異性愛者、異性愛を問う」『当代批評』夏号(22号)、352-365。


ハンさんは、1998年の2月に『バディ(Buddy)』という同性愛専門誌を創刊した。2004年の12月に24号を最後にして、もう刊行されていないという。だが、韓国性的少数者文化人権センターは まだ健在だ。また、ひきつづき同性愛専門出版社「ヘウル」を運営している。


きょうは、そんなハンさんの文章を紹介しながら、わたしも異性愛について、ちょっと かんがえてみたい。


異性愛者たちが「自分を定義すること」に没頭したりはしないというのは、よくしられた事実だ。そのため わたしたちは、とてもマジメに「異性愛の正確な意味はなんだろう?」と質問を なげかけても、かんたんに こたえを きくことはできない。
(354ページ)。


よくある表現を かりれば、これが「関係の非対称性」というものだ。

つまり、対比される関係にありながら、おたがいの社会的な地位は、まったく ことなっているということだ。


まっさきに目につく一番の問題は、異性愛者たちが自分を「異性愛者」と認識するのではなく、「多数」と命名することにだけ なれているという点だ。
(同上)


この指摘も同様だ。ほとんどの異性愛者は、自分が「ふつう」で「正常」であることを 信じてうたがわない。それだから、「自分の存在について説明しなければならないのはいつも社会的 非主流派の役目」になってしまうのだ(同上)。だって、多数派の異性愛者のほうが自分を うまく説明できるなら、同性愛者は、その異性愛者以外の存在、つまり「非異性愛者」と理解すれば すむからだ。


だが、現実は そうではないのだ。


同性愛とは、なにか。ハン・チェユンは同性愛者の人権運動をやっている。そのハンさんが、人権運動をしようと かけめぐれば めぐるほど、「同性愛者が だれのことなのか、あいまいになって困惑してしまう」という(354-355ページ)。

同性愛とは なにか。ハンさんは、つぎのように こたえている。


理論に人間をあてはめるのではなく、人間を観察して理論化するのなら、胸に手をあてて良心的に告白するに、「わたしには わからない」だ。
(355ページ)


なぜなら、さまざまなひとにインタビューをしてみると、「同性愛」といっても、とらえどころがなくて、かんたんには規定できないからである。だからハンさんは、「まず、異性愛者に問う」という(354ページ)。


異性愛者が異性愛者としての明確な問題意識をもたずして、ただ異性愛者として同性愛者に関心をいだくなら、さらに異性愛主義と差別も、より強化されるかもしれない。視線の変化なしに、力の変化がおとずれるだろうか。
(358ページ)


まず、異性愛者が「異性愛」を意識し、概念化し、自問自答する作業が必要なのだ。


はなす側と きく側の位置が固定的であれば、それは対話ではない。対話ではないなら、なにを かえることができようか。
(362ページ)


この指摘は、「ひびきあう対話」でなければ、「関係は かわらない」し、かえられないということだろう。


障害者が非障害者をみるとき、「わたしは あのひとたちと ちがうなあ。どうしてだろう?」と感じるなら、非障害者が障害者をみるときには、「あのひとたちは(わたしと)ちがうなあ。どうして ああなんだろう?」と かんがえる。
(363ページ)


このように、ハンさんは くりかえし、多数派の意識のありように 注意をうながしている。なかでも、つぎの対比は、かなしくなるほど あざやかである。


非障害者の視点から「障害のあるひとも いたりするものだ」とか、異性愛者の視点から「同性愛をするひとも いたりするものだ」という「多様性」は、障害者が「そうね、世の中にも障害のないひとも いるんだ」といって配慮し、同性愛者が「異性を愛するひとも理解してあげよう」と尊重するはなしに おきかえてみるとき、コメディーになる。
(同上)


ハンさんは、「われわれにとって、ほんとうに必要なのは「人間とはなにか」についての前提を転換することであり、人間が人間をきちんと尊重するすべをまなぶこと」だという。


つぎに引用する箇所では、このブログで何度も とりあげてきたユニバーサルデザインと おなじ問題意識にたっている。


もし、はじめから人間の歩行が両足、あるいは、つえを利用したり、車イスを利用するなど、さまざまな種類の歩行をさすことが前提になっていたとすれば、おそらくこの世のすべての建築設計士たちは…中略…当然のごとく階段以外のものも開発して設計するだろう。…中略…オトコとオンナ、同性愛と異性愛も、あらためて説明するまでもなく、おなじことだ。
(364ページ)。


異性愛とは、なんだろうか。同性愛とは、なんだろうか。よく わからない。これだと規定できるものではない。

だが、ひとつ はっきりと主張できることは、異性愛主義は徹底して批判されなければならないということだ。異性愛という制度は、うたがいつづけ、ぶっこわされなければならない。人間を抑圧する制度だからだ。


異性愛も、同性愛も、人間の必然的な すがたに ちがいない。「人間として、あたりまえのこと」なのだ。



わたしは、相手が だれであれ、だきしめあうのが すきだ。からだでコミュニケーションをとるのが すきだ。手をつなぐのも すきだ。それは、相手がオトコだろうと、オンナだろうと関係がない。性的には、女性が すきだ。けれども、からだでコミュニケーションをとるのが すきだという意味で、だれとでもセックスできる。いやな気は しないのです。


あるカップルに、「できるかどうか」じゃなくて、「したいかどうか」だよと いわれたけどね(笑)。ハンさんが「わからない」といった背景には、「両性愛者と いいつつも、デートしたことのあるのは異性だけ」というひとも ふくまれているのだから。


だから おもうのは、きっちりと はっきりと、同性愛と異性愛を「区別できるはずだ」という発想を すてなくちゃいけない。同性愛は異常だという偏見を すてなくてはいけない。


なぜって、「人間として、あたりまえのこと」だからよ。


「こぼれおちたのは、異性愛か。それとも同性愛か」? そんなの、わかりゃしないわよ。


この世に うまれおちたのは、人間なのよ。

いまここに いきているのは、人間なんですよ。