漢字の すくない日本語の文章を かいていると、すぐに よみにくいという反応が かえってきます。はたして、よみやすいって どういうことだろう。きょうのテーマは、「よみやすさ」です。
日本語学/日本語教育の研究者であるシュテファン・カイザーさんの「日本語と漢字・日本人と漢字 : 日本語の表記と国内外における捉え方について」という講演が あります。これが、とても よく まとまっています。まず、これを よんでみてください。PDFで公開されています。
あるいは、つぎの文章が とても参考になります。
- 山口 光(やまぐち・ひかる)1987 「表意文字と表音文字」『日本語学』8月号
- 山田尚勇(やまだ・ひさお) 1987 「文字体系と思考形態」『日本語学』8月号、43-64
- 山田尚勇 1990 「文字の型と読みの速さ」『日本語学』11月号、4-29
- マーシャル・アンガー「漢字とアルファベットの読み書き能力」『ことばの比較文明学』福武書店
- 広瀬雄彦(ひろせ・たけひこ) 2007 『日本語表記の心理学-単語認知における表記と頻度』北大路書房
要するに、よみやすさについての こたえは、うえの文献に かいてあります。興味が おありでしたら、ぜひとも およみください。
これで おわりです…、というのも さみしいので、わたしなりに説明します。
日本語は、表意文字である「漢字」と表音文字である「かな」を つかうから、よみやすいという主張が あります。表音文字は、音から意味へと理解されるのにたいして、表意文字は、音を介さずに、文字から意味へと直接 理解されるのだという主張まで あります。この主張を、ふたつの例文で検証してみましょう。つぎの例文は わたしの「漢字という権威」という論文からの引用です。PDFファイルが 公開されています。よかったら、よんでみてください。
さて、例文です。まず、ひとつめ。
いかがでしょうか。
わたし自信は性格にはわからないのだが、わたしの正確はのんびりしているそうだ。大将的に彼はせっかちで、いくら中位しても効かない蛍光がある。
漢字は、でたらめに変換してあります。漢字をみて、音を介さずに直接 意味や概念が つたわるのであれば、うえの文章は、まったく よめないはずです。よめても、意味のとおる文章には ならないでしょう。
そうではなく、漢字をみて 音が処理され、そして意味が理解されるのであれば、うえの文章は、奇妙ではあっても意味ある文章として よむことが できます。
どうでしょうか。
ふたつめの例文です。
いかがでしょうか。
シカシ、オオクノヒトニトッテ、漢字カタカナマジリ文ハ、ヨミニクク感ジラレルダロウ。ソレデモ、コレガナレノ問題デアルコトハ、ダレデモガ、ミトメルダロウ。漢字ヒラガナマジリ文ト、漢字かたかなマジリ文ヲクラベルダケデモ、イカニ、ナレノ影響ガオオキイノカガワカルダロウ。
つぎに、この文章のカタカナとひらがなを逆転させてみます。
どうでしょうか。
しかし、おおくのひとにとって、漢字カタカナマジリ文ハ、よみにくく感じられるだろう。それでも、これがなれの問題であることは、だれでもが、みとめるだろう。漢字ひらがなまじり文と、漢字カタカナまじり文をくらべるだけでも、いかに、なれの影響がおおきいのかがわかるだろう。
どちらの文章にせよ、漢字の すくない文章ですから、「よみにくい」と感じるひとも いるかもしれません。ですが、「おなじ程度に よみにくい」でしょうか? そうではないと おもうのです。漢字カタカナまじり文を いきなり よまされたら、よみにくいのは当然なわけです。
ここで、問題になるのは、それなら表記は安定しているほうが「よみやすさ」が維持されるはずだという論点です。つまり、「表記は なるべく かえないほうが いい」という意見です。
この点について、わたしは つぎのように主張します。「漢字という障害」という論文の「おわりに」からの引用です。
159ページ。
文字のよみかきを学習するなかで、漢字にとくに愛着を感じなかったひとであれば、だれしも漢字という困難を経験してきたはずである。そして、なんらかの漢字がよめないこと、かけないことについて、はずかしい気もちにさせられたことなど、それぞれのひとに「漢字という障害」の記憶があるのではないか。漢字という障害がなければ、だれも漢字力の有無や大小におどらされ、不安をもつことはない。漢字という障害、漢字という不安をなくすために必要なのは、さらなる漢字教育なのだろうか。日本語には、2000字もの漢字がつかわれており、その漢字には訓よみと音よみがあり、画数もおおく複雑な字づらのものが大量にある。このような日本語表記は、だれでも自由につかいこなせる文字体系ではない。漢字という不安は個々人の常識不足がもたらすのではなく、社会がつくりあげているのである。だから、その社会こそを改善しなければならない。漢字弱者の解放は、漢字という不安を感じてきたすべてのひとにとっての解放でもあるのだ。
ここで「漢字という障害がなければ」というのは、漢字をつかわずに日本語を表記する自由が みとめられること、漢字をつかわない日本語表記にアクセスできることを意味しています(156-159ページ参照)。
つまり、いまある日本語表記は、だれにとっても「よみやすい」ものではないということです。「文字に こだわりつつ、こだわらない」という記事にも かきましたとおり、「だれでも よみかきできるはずだ」というのは幻想です。無理なはなしです。それは、いくら表記を改善しても おなじことです。
ですが、「よみかきできる」のに、漢字が障害になって、よみかき「できなくさせられている」ひとが存在するならば、その障害を とりのぞく配慮をするのが理想的な社会であると、わたしは かんがえます(「漢字が 排除するもの」)。
言語というもの、その表記というものが「絶対的なもの」として存在し、その社会で生活するひとは、「ただひとつ」の言語や表記を身につけ、使用しないといけないという社会には、すみたくありません。そのような社会には したくありません。
現在、バリアフリーやユニバーサルデザインが さけばれ、だれもが生活しやすい社会をつくっていこうとするなかで、日本語の表記は、どのようにあるべきなのでしょうか。
この問題を解決できるとすれば、「表記をたし算する」ことだと、わたしは おもいます。そして、技術を有効に利用することだろうと おもいます(「ユニバーサルデザインは たし算の思想である。」)。
はたして、民主的な表記を つくっていくことは できるのでしょうか。できないのでしょうか。
つくっていく必要があるのでしょうか。それとも、表記を民主化すべきではないのでしょうか。
表記を たし算する社会を つくっていくことに、なにか問題が あるのでしょうか。問題があるというならば、それは、だれにとってでしょうか。
はたして、表記とは、なんのためにあるのでしょうか。