「『地名の社会学』」と「漢字が 排除するもの」に議論を補足します。
わたしは最近、「ユニバーサルデザインは たし算の思想である」ことを論じていきたいと おもっています。わたしがテーマとしているのは、日本語表記のユニバーサルデザインです。
「日本語表記のユニバーサルデザイン」と きいて、どのようなイメージを もたれますでしょうか。
「理想的な日本語表記をつくる。つまり、漢字をなくすことに ちがいない」。もし、そのようにイメージされたとすれば、わたしの主張とは ちがいます。
わたしは、「ただひとつの理想的な日本語表記」をつくり、それを社会の全員で使用すべきだとは主張しません。
漢字が よくわからないひとには、「音声化されたもの」、「漢字に ふりがなが ふってある文章」、あるいは、「ひらがなとカタカナだけの文章」、「ひらがなだけの文章」、「ローマ字の文章」をつかえるようにするべきだということです。
「漢字がないと、わかりにくくなるひとも存在する」。だから、なにも しないのか。
そうではないはずです。選択肢をきちんと提供することが、もとめられると おもいます。
そして、漢字を ひらがな などに変換するソフトは、すでにあります。たとえば盲人がパソコンをつかうとき、音声ブラウザというものを つかいます。これで、漢字かなまじり文も、機械が音声で よみとってくれるのです。もちろん、自動点訳というのもあります。だから、その技術を いろんな文字弱者が つかえるようにする必要があるのです。
そして、その機械による変換のさいに「もっとも障害となっている」のが固有名詞の漢字です。固有名詞の漢字は、人間にも機械にも、よみようがないものが たくさんあります。
本人などに確認しないことには、だれにも よめないものを、どうして そのまま表記することが できるのでしょうか。これまで、そうやって漢字表記だけで固有名詞を表示してこれたのでしょうか。
それは、社会の多数派が「漢字をつかわないひとたち」の存在を完全に無視してきたからです。
点訳をする、音訳や よみきかせをする、翻訳をする。そうしたときに、固有名詞の漢字は、「よみかた」が わからないとなりません。
でも、めが みえるひとであれば、漢字表記の なまえや地名を、なんとなく「ロゴ」として識別して、すますことができます。けれども、どうでしょうか。いったことのない ところに電車やクルマで旅行したと しましょう。
そのとき、よみかたが わからない地名ばかりが でてきたら、こまりは しないでしょうか。駅のホームなど、公共機関では、地名の漢字に よみかたが かいてあることが よくあります。あれって、すごく たすかりませんか?
いいかえると、あれが なければ、不便ではないでしょうか。
その不便をしいられているのが、漢字弱者なのではないでしょうか。
山田大という なまえに、(やまだ・まさる)と「よみかた」をそえるのは、文章表現を まずしくしたり、文化や伝統を 破壊することなのでしょうか。
わたしには、そうは おもえません。
わたしは、日本語表記の問題について かんがえるのを人生の課題にしています。だから、わかちがきを とりいれたり、訓よみ漢字をつかわない方針をとっていたりします。
おききしたいのですが、もし、わたしのような人物が、問題を指摘するばかりで、なにも「実践」を模索していなければ、それこそ、おかしく奇妙に感じられるのではないでしょうか。