応援団、つまりは集団なわけですよ。集団。これが いけません。
「日本代表」って いいますね。さて、野球でもサッカーでもなんでも いーけどもね、プロ選手の代表なんじゃねーの。アマチュアから「代表」が えらばれることも あるのかもしらんけど、ともかく「選手」の代表。なんで「日本の代表」とかに飛躍するかね。「あのひとたち」を自分らの代表だと みなすことによって、「あのひとたち」に代表されることによって、代表と全体と自分をつらねあわせる。わたしゃ、「代表」と「全体」と「自分」を全部きりとりたいね。できるかぎり。勝手に ひとりで「アイデンティティからの自由」を宣言して、自分の たち位置から のがれようとしたくは ないけど(なるべくねえ。けど、たびたびしてるかもしらん)。
ん、どういうこと?。
うーん、なんといいますかね。ひとは、関係性をいきている。その関係性ってもんがだね、現に つらなっている関係もあれば、むりやり むすびつけてる関係ってもんも あるってことよ。現実を直視するのは まんざらではないが、飛躍は こまりまっせ、ってこった。
坂口安吾(さかぐち・あんご)が かいたものに『安吾巷談』というのがある。敗戦後の日本の風景を論評したエッセイだ。そのなかに「世界新記録病」というのがある。たとえば、「レースというものは、せりあいにあるのである。決してタイムが相手ではない。タイムが相手なら、日米一堂に会してレースをやる必要はない。銘々各地で記録をとってくらべ合って、オレが一番だ、アレは二番さとウヌボレておればすむことなのである」なんていう勝負論が かいてある。ここで紹介するのは、「私は応援団というものがキライである」という部分。
スポーツは勝負を争うものではあるが、好戦的なものではない。礼節と秩序のもとに競う遊びにすぎない。応援団というものは、スポーツから独立して、勝負だけを旨としており、愛校心という名をかりて、いたずらに戦闘意識をもやしており、あの校歌だの応援歌というものは、坊主のお経によく似ているなァ。ああいうブザマな音響は、つつしまなければいけない。集団の行動というものは、底に意気(粋)の精神がなければ、ジャングルの動物郡とそう変わりはないものだ。応援団には粋の心構えなど、ありやしない。自分がスポーツをやる当人でもないのに、全然殺気立っている。「応援ひとり」に はなしをもどしましょう。要するに、応援ひとりというのは、飛躍としての集団への帰属から、独立するということではないでしょかね。
そもそもだね、うまいひとらがゲームをやってるのってのは、みていて おもろいもんだよ。それぞれの選手についての予備知識というものを、なるべく もたないほうが、ゲームそのものをたのしめるんでないですかね。お、いまの すげえ、みたいな。選手になったひとらだってさー、いろいろ うまい条件が かさなったから選手になれたんであって、たんなる「努力の産物」ではないよ。
ひとりでゲームをみて、たのしむ。応援ひとりっていうか、そもそも応援しない。ただ、みる。ていうか、わたしはゲームをみない(え…)。それ、「応援しない」とか「興味ない」ってやつでは。
わたしの はなしは どうでもいいさね。応援団より応援ひとりのほうが、なんか すてきだってことだ。「孤高のひと」と いいますね。なんか孤独なんだけど すごいひとのことを。孤高。つまりは、おたかいところにいるわけです。そして、群衆は…。シモジモというように…。きゃーっはっは(ん、きょうは こういうキャラのようです)。
いやね、ぬきでるためでもなく、えらぶるためでもなく、ただ、ひとりの わたしであろうとすること。それって だいじなんではないでしょうか。