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人権教育は、ありえない

人権教育にかんする原稿をよんだ。すばらしい内容。

ここでは、原理的な はなしをかく。とても重要なはなしなので、かんがえてみていただきたい。


なにが教育をなりたたせるのか。たとえば、学生みんなが席にすわって授業をきく。授業に参加する。これをあたりまえのことだと想定すること自体が、おそろしい発想である。

ある高校がある。進学校だ。みんな授業に参加している。一部が いねむりする程度だ。すばらしい。

もうひとつ高校がある。授業中、さわぎっぱなしだ。教師は、しずかにしなさい! すわりなさい!をさけびつづけないと いけない。あるいは、だれにも きこえないことをわかっていながらも、こえをはりあげようとも かきけされてしまうがために、たんたんと授業をつづけているかもしれない。

なぜ、このようなことになるのか。わたしにとって、授業にならない教室というものは、とても自然なことだと おもえる。50分も席に すわりつづけるなど、すべての人間が できることではない。あたりまえのことだ。

ではなぜ進学校では、だいたい みんなが授業に参加できているのか。それは、学生を選別したからだ。


ある学校で、人権教育をおこなう。どのような人権をおしえるのか。どのような教育にするのか。それを議論することも大事だ。けれども、学生たちが その学校に かようようになるまで、さまざまな選別を通過している。学生たちは、選別に勝利したものたちだ。

選別というと、入学試験だけをイメージしているかもしれない。だが、そうではない。「就学時健診」による選別もある(小笠毅=おがさ・たけし『就学時健診を考える』岩波ブックレット、山田真=やまだ・まこと『子どもの健康診断を考える』ちくま文庫)。

そうなると、人権教育をなりたたせるものは、従順な学生の選別ということに ほかならない。意図していなくても、人権教育の授業もまた、少数派の排除によって成立しているのである。だから、人権をおしえながら、さまざまな少数派が自分の授業に参加していないことを、ただしく感謝しなければならない。自分が選別されたエリートを相手にしていることをありがたく感じなければならない。

高校でも大学でもいい。スリッパぐらいしか「自分のもの」を認知できないようなひとが参加してはいけない理由など存在しない。まどをポンポンたたいたり、そのへんに すわりこんだり、イスにすわったり、じっとしていることのないひとが学校に存在してはいけない理由など、あるはずがない。けれども、現実には そういったひとが排除されている。それは、効率をもとめた結果にほかならない。

安定、効率、安心、そんなもののために、最初から いなかったかのように あつかわれているひとたちがいる。そうしたひとを排除することで授業が なりたっている。排除は しかたがないとは いわせない。そして、排除しているのは、はっきりとした事実である。

統制のきくひとたちが参加する学校。そこで なにが おしえられようとも、人権侵害を前提とした社会システムに ほかならない。学校で人権をおしえるということは、矛盾をおしえるということ、ホンネとタテマエをおしえるということ、人権をいかに侵害するかということをおしえることにしか なっていない。それは、いかに教育内容をかえようとも、おなじことである。

人権教育など、ありえない。教育は人権侵害を前提にするからだ。統制を前提にしない教育なら、強制的に授業の時間が決定されていてはいけないし、場所が勝手に きめられていてはいけないし、おしえられることが学生との相談なしに決定されていてはいけない。

教育ということばを、なんのためらいもなく つかえるひとに、人権を論じるほどの人権意識は存在しない。

教育を学習支援に転換すれば、ひとりひとりが みえてくる。学習支援ということであれば、時間や場所を強要することはできなくなる。なにをおしえるのかではなくて、なにをまなぶのかという主体的な いとなみになる。

学習支援をするには、よみとりが必要になる。なにが必要な支援なのかをなやむ必要がでてくる。そこにはジレンマがあるだろう。ほんとうに これで いいのかという、うしろめたさをかかえこみつづけるだろう。けれども、選別を自明とした教育実践からは自由になれる。効率や安定をもとめる気もちからは自由になれる。

ゆれる気もちと つきあいながら、むきあっていくことができるようになる。それが歓迎すべき変化でなくて、なんだろうか。