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自分が被害者だと錯覚できる権力

自分たちが足をふみにじってきた相手を、なんの根拠をもってか「加害者認定」することがある。

権力とは、足をふみにじれる位置にいるということだけではない。「抵抗」を暴力だと みなし、相手を悪人あつかいできる位置にいるということでもある。まさに、おもうがままなのだ。

「危険な精神障害者」をどうするのか?という問題設定。そんな議論をできるという位置にいることこそ、権力者であることの あかしなのだ。そんな議論では、みずからの加害の歴史は ほうむりさられる。隔離するということ。それを、あちらこちらで乱用してきたのは、わたしや あなただ。ハンセン病を根拠に、精神病を根拠にして。衛生的で安心な社会をきづいていくために。こんにち、監視カメラを必要としているのも、わたしや あなたなのだ。すべては、安心できる社会のために。そう、「社会のために」だ。いや、社会という ことばは、なんだか ぼやけた表現だ。「国家のために」だ。

ちょっとばかり引用したい文章がある。
では、考えるべきバランスは一体どこにあるのか。それは、社会の安全と精神障害者の人権などという、まったくもっていかがわしい対立においてなのか。
そうではないだろう。社会が直視すべきは、百年、いやそれ以上にわたって人権をまったく無視し、精神障害者を閉じ込めてきた「歴史」ではないのか。そして、今なお社会からも法の世界からも精神障害者を排除している、そうした「現実」ではないのか(芹沢一也=せりざわ・かずや『狂気と犯罪』講談社+α新書、217ページ)。
ほんとうに「隔離すべき だれか」が いるというのなら、わたしたちが隔離すべきではなかったかもしれない人たちの一生を、直視してみたほうが いい。そして、もしかしたら隔離すべきではないかもしれない人たちを、それでも隔離すべきだと、こわだかに さけんでみれば いい。

なぜ、武器をもっている わたしや あなたが不安になるのだろう。武器をもっているが ゆえの恐怖から、のがれることが できないからだろうか。

グーグル:「隔離の歴史」 / 「隔離 精神」

付記:芹沢さんのブログを発見。「社会と権力 研究の余白に」。