論理的に かくとは、いったい どういうことなのか。
論文をちょっと かいてみても、よくわからない。ひとの試作原稿をよむと、むちゃくちゃなところが たくさんみつかって、よくメッセンジャー(一対一のチャット)で ひとつひとつ指摘したりしている。ここが おかしい、これは ちがうと かきながら、自分の かいたものにも これだけ問題点が 自分で わかったら いいのに、と おもう。
そもそも論理について まなんだのは、木下是雄(きのした・これお)『レポートの組み立て方』ちくま学芸文庫ぐらいなもので、あとは坂口安吾(さかぐち・あんご)のエッセイから まなんだものが たくさんあったように おもう。だが、それだけだった。
あるとき感動したのは「形態と機能の区別」という、マーシャル・アンガーの指摘だった(『コンピュータ社会と漢字』サイマル出版会、44から59ページ)。2000年のころだから、いまから7年まえのことだ。
それが どのようなかたちをしているかと、それが どのような機能をはたしているかは、ちがうし、分別できる、区別しないと錯覚をおこすという指摘は、わたしには「かっこよく」うつった。感動した。
それから しばらくして、2006年あたりから すこしずつ論理にかんする本をよんでみたのだが、なかなか すぐには身につかない。これだという本も みつからない。けれども、ともかく すこしずつ まなんできた。「論理学」と名のつく本であれば わたしが もとめていることが かいてあるわけではないことも まなんだし、論理をわきまえているひとの文章をじっくり よむ必要も感じた。
ハッキング『何が社会的に構成されるのか』、ガーゲン『あなたへの社会構成主義』は、どちらも わたしの頭を整理するのに役だった。ヴィトゲンシュタインが晩年かいていたことが示唆的だというから、言語ゲーム論の「わかりやすい説明」をかじってみた。
結局それは、意味とは なんぞやという議論だった。ということで、意味論と語用論の本をかってみた。
児玉徳美(こだま・とくみ)『意味論の対象と方法』くろしお出版。
ジェニー・トマス『語用論入門-話し手と聞き手の相互交渉が生み出す意味』研究社。
トマスの本が よみやすい。
これだ!という本をひとつ、みつけた。三浦俊彦(みうら・としひこ)『論理学がわかる事典』日本実業出版社。
じつは、『言語哲学を学ぶ人のために』世界思想社をもっていたことに気づいた。
もひとつ、『数学ビギナーズマニュアル』日本評論社という本も手もとにあったのだった。レカナティ『ことばの意味とは何か』新曜社も あわせてよめば、ひとつ、おおきくなれるような気がする。
けど、ちょっと おそかったかな。ひさびさに べんきょうしているような気もする。ああ、すでに美化されるだけの「あのころの わたし」は、まだ死んでいなかった。と おもうと、すこしは すくわれる。